78話 嫌な予感
総務省異界管理局。
休日明けの庁舎は、いつも通り必要以上に静かだった。
ハルトとヒマリは、二階の執務室の前で立ち止まっていた。
ドアの向こうから、椅子の軋む音がする。
「……アサは、大丈夫かな」
「昨日はあれから何も言わず、ずっと俯いていました。アオイさんが付き添ってくれているので、今は……それを信じるしかありません」
ヒマリの声には、いつもの張りがなかった。
ノックをする指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
それから、意を決したように扉を叩いた。
「――どうぞ」
気だるげな声が返ってくる。
中に入ると、土方大和はパイプ椅子に深く腰かけ、書類の山の向こうから顔だけをこちらに向けた。
くしゃくしゃの頭は相変わらずで、白衣も相変わらずよれている。
「よう。休みのところ悪いな……って、こっちが呼び出したんだったな」
土方は自分で言って、面白くもなさそうに笑った。
ハルトとヒマリが向かいのパイプ椅子に座るのを待ってから、机の上で指を組む。
「で? 昨日の件、聞かせてもらおうか」
ヒマリは一度だけ深呼吸をしてから、淡々と報告を始めた。
アオイの父親を経由して流した情報通りに、指定した場所へ接触者が現れたこと。
その正体が、行方不明とされていた浅野そらであったこと。
彼が明確な敵意と余裕を持って浅野家の長女の確保を目的としていたこと。
交戦の末、そらが自らの意思で撤退したこと。
土方の表情から、徐々に軽薄な色が消えていった。
「……浅野そら、ね」
呟くように繰り返し、土方は椅子の背もたれに体重を預けた。
天井を見上げ、しばらく黙り込む。
「行方不明者名簿には載ってる。捜索は……まあ、正直に言うと、とっくに打ち切られてる案件だ。予算も人手も、どこにでも無限にあるわけじゃないからな」
「……それが、生きていました。しかも、敵側の意思で、姉を狙って」
ヒマリの声に、抑えきれない苛立ちが滲む。
土方はそれを咎めるでもなく、ただ静かに聞いていた。
「なるほどな。……で、そっちの嬢ちゃんの様子は?」
「アサは……ショックを受けています。……当然です。生きていると信じたかった相手に、あんな形で再会したんですから」
「そうか」
土方は短くそう言っただけで、それ以上は踏み込まなかった。
代わりに、机の引き出しから薄いファイルを一枚取り出し、ぱらぱらとめくる。
「浅野家の先代当主の件、覚えてるか。捜査、今もまだ止まってない。今回の一件で、多分、線が繋がる」
「……そらが、先代当主と?」
「断定はできん。だが、偶然だと片付けるにはタイミングが良すぎる」
土方はファイルを閉じ、ハルトとヒマリを交互に見た。
その目に、いつもの飄々とした色はなかった。
正直、ハルトは居心地が悪い思いをしていた。
ハルトは、数日前、タイムリープをしたときに、浅野家の先代当主――おとはと、会話をしている。
彼女がどんな人間なのか、今どのような状況におかれてるのかを、知ってしまったからこそ、彼の胸は痛んでいた。
そんなハルトの様子を知ってか知らずか、土方はハルトの方を一瞥してから、再びヒマリの方を向いた。
「上には、そのまま報告する。だが、正直に言っておくと――上の判断は遅い。今回みたいに現場が先に動いて後から報告が上がってくる形だと、組織として対応が後手に回る。お前らが無事だったのは、運が良かっただけだ」
「わかっています」
「わかってるなら、次はもう少し早く相談しろって話だ」
小言のようにそう言って、土方は軽く息を吐いた。
それから、少し声のトーンを落とす。
「……で、ヒマリ。もう一つ聞きたいんだが」
「……なんでしょうか」
「昨日の交戦記録、感知班の方にも一応上がってきてる。お前、何か……新しい力、使ったろう」
ヒマリの肩が、微かにこわばった。
「……はい。とっさのことで、自分でもまだ、よくわかっていません」
「そうか」
土方はそれ以上追及しなかった。ただ、しばらくヒマリの顔を見つめてから、ぽつりと呟く。
「お前と契約していた悪魔が消えてから、ずっと一人で無理してただろ、ヒマリ」
不意打ちのようなその一言に、ヒマリが息を呑んだ。
「……なぜ、それを」
「俺はお前の上官でもあり、師匠でもある。あとはわかるな?」
土方はひらひらと手を振り、いつもの調子に戻ったように椅子を軋ませて立ち上がった。
「まあいい。とにかく報告は受け取った。浅野そらの件は、組織としても最優先案件に格上げする。……お前らも、無茶はするなよ。特に秋津ハルト、お前は戦闘要員じゃないんだから」
「……わかりました」
苦笑い交じりにハルトが答えると、土方は窓の外に視線を移した。
その広い背中越しに、独り言のような呟きが漏れる。
「――嫌な予感がするんだよな、最近」
それが誰に向けた言葉なのか、ハルトにもヒマリにも、わからなかった。




