77話 曇り空での再会
住宅街の路地裏、アサの住むアパートから少し離れた電柱の陰。
ハルトとアオイは、息を潜めながらその時を待っていた。
「……本当に、来るのかな」
「私……と言うより、父は組織の中でもかなり信用されているようですので……。彼がそのまま情報を伝えていれば、必ずここに来るでしょう」
アオイの声は、いつも通り抑揚に乏しかった。
だが、その指先はスマートフォンの画面をきつく握りしめている。
裏切りの片棒を担いでいる、という自覚が、彼女の中でまだ消化しきれていないのだろう。
時計の針が、指定した時刻を回った。
「……来ました」
アオイが小さく呟いた。
路地の向こう、街灯の光の輪から外れた暗がりに、一つの人影がゆっくりと歩み出てくる。
その姿を見た瞬間、ハルトの喉の奥から、乾いた息が漏れた。
穏やかな顔立ち。
人当たりの良さそうな微笑み。
記憶の中の――いや、まだこの世界では、一度も顔を合わせたことのないはずの、そらだった。
「……ふーん」
そらは、周囲を軽く見回し、それから小首を傾げた。
人の気配を感じ取ったのだろう。
だが、その表情に警戒の色はまるでない。
むしろ、退屈しのぎの謎解きを楽しむような、余裕すら滲んでいた。
「随分と賑やかな出迎えですね。大変嬉しい限りです」
そらの視線が、電柱の陰から歩み出たハルトを捉える。
「初めまして、でいいんでしょうか。あなたが、秋津ハルトさんですね?」
「……浅野……そら」
こみ上げる感情を抑えながら、ハルトは低く問いかけた。
まだ何もされていない。
それなのに、こみ上げてくるのは、紛れもない怒りだった。
「へえ。僕の名前を、もう知っているんですね」
そらは驚いた様子もなく、興味深そうに目を細めた。
「面白いな。まだ、名乗ってもいないのに」
その時、アパートの玄関扉が開いた。
現れたのは、剣に変わるアクセサリーに手を添えたヒマリと、その隣に立つアサだった。
「――何しに来たのですか?」
ヒマリの声は、静かだが、揺るぎなかった。
「姉を、お迎えに上がりました。抵抗なさらなければ、手荒な真似はしませんが」
そらがそう告げた、その瞬間だった。
「――今、なんて」
アサの声が、明らかに震えていた。
街灯の逆光の中、目を凝らすようにそらの顔を見つめている。
「そら……? 今、この人、そらって……」
「アサ?」
戸惑うヒマリをよそに、アサはふらりと一歩、前に出た。
「……そう、なの? あなた、本当に、そら……なの?」
その声には、これまでハルトが一度も聞いたことのない響きがあった。
怒りでも、疑いでもない。
もっと剥き出しの、縋るような、祈るような色。
そらは、その問いに、しばらく無言だった。
やがて、ゆっくりと口の端を持ち上げる。
「――お久しぶりです、お姉ちゃん」
たった一言。
それだけで、アサの表情が、粉々に崩れ落ちた。
「そら……生きて……ずっと、ずっと探して……」
「探さなくてよかったのに」
そらの声は、あくまで穏やかだった。
だが、その穏やかさが、むしろ何よりも残酷だった。
「姉さんが心配するようなことは、何もありません。僕は、僕の意思で、今ここにいます。誰かに脅されているわけでも、操られているわけでもない。ただ、自分で選んだ道を歩いているだけです」
「そんな……どうして……」
「なぜ、と聞かれても困りますね。姉さんが思い描いていた『可哀想な弟』は、もうどこにもいません。それだけの話です」
淡々とした声。
まるで、他人事のような口調。
アサの膝が、がくりと折れかける。
それを、ヒマリが咄嗟に支えた。
「――お迎えにきました、姉さん。抵抗なさらなければ、手荒な真似はしません」
そらは、繰り返した。
姉と呼びながら、その声には、家族としての温度が欠片も宿っていなかった。
「……お断りします」
ヒマリが、震えるアサを庇うようにして前に出た。
「アサに、何をしようとしているのか。詳しくは知りません。でも、目の前で見過ごすつもりはありません」
「……なるほど」
そらは小さく頷き、それから、憐れむような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「あぁ。人間というのは、本当に度し難いものですね。何も知らないくせに、それでも誰かを守ろうとする。……愚かで、そして――少しだけ、美しい」
その言葉と共に、そらの足元から、黒い影が音もなく這い出した。
「では、始めましょうか」
戦いの火蓋は、あっけなく切られた。
そらの操る影は、あの江ノ島の砂浜で見たものと同質の、しかし比較にならないほど洗練された動きで、ヒマリとアサへと襲いかかる。
ヒマリの剣が影の一部を切り裂くたびに、それはまるで水面のように崩れ、瞬時に再生していく。
「厄介、ですね……!」
ヒマリが舌打ち混じりに呟いた。
「アサ、後ろに!」
「わかってる、けど……!」
アサが素早く距離を取りながら、確率操作の力で影の軌道を僅かに逸らす。
だが、その手は、明らかに先ほどまでの動揺を引きずったまま、震えていた。
「どうして、そんな顔してるのよ……! あんたが、私の知ってるそらなら、こんなこと……!」
叫びながら、アサは影の一部を弾き返す。
だが、その声は、そらには届かなかった。
「知っている『そら』は、もういないと言ったはずです」
そらが、涼しい顔でそう告げる。
まるで、天気の話でもするような口ぶりだった。
「読まれてる……!」
ハルトは拳を握りしめながら、離れた場所で歯噛みすることしかできなかった。
戦況は、じわじわとヒマリたちの不利に傾いていく。
そんな中、ヒマリのこめかみを、鈍い痛みが再び貫いた。
「……っ」
小さく呻いたヒマリの隙を、影の刃が正確に突いた。
「ヒマリ!」
アサの悲鳴じみた声が響く。
かろうじて剣で受け止めたものの、衝撃でヒマリの体が大きく後方へと弾かれた。
「……くっ……」
片膝をついたヒマリの視界が、白く霞んでいく。
またこの痛みだ。ラストが消えて以来、ずっと一人で抑え込んできたこの痛み。
「随分と、脆いんですね」
そらが、興味を失ったような、それでいてどこか観察を続けるような声で呟いた。
「せっかく守ろうとしているのに、その体が、あなたの意志についてきていない。……皮肉なものです」
その言葉が、ヒマリの中の何かに触れた。
(また、これだ。私はいつも、大事な時に、自分を制御できない)
こめかみを押さえる手が、震える。
だが、その震えの中に、ふと、ある一つの光景が浮かび上がった。
――アサと初めて肩を並べて笑い合った、あの屋上での午後。
――ハルトが、あの空虚な空間で叫んでくれた、あの声。
――そして、今。目の前で、震えながらもなお踏みとどまり続ける、アサの背中。
(この痛みは……敵じゃない)
かつて、デストロイと対峙した時に辿り着いたはずの答えが、この瞬間、また新たに胸の中で像を結んでいく。
ただし今度は、憎しみからの解放ではなく、目の前にいる誰かを守りたいという、もっと単純で、もっと強い願いから。
「……なるほど、そういうことですか」
ヒマリの唇から、静かな声が漏れた。
震えていた手が、ゆっくりと下ろされる。
荒かった呼吸が、少しずつ整い始めた。
「おや……?」
そらが、初めて僅かに眉をひそめた。
ヒマリの体の輪郭が、澄んだ青白い燐光を帯び始めている。
「この力は、我慢するためのものじゃない。……誰かのために、使うための力だったんですね」
ヒマリはゆっくりと立ち上がり、剣を構え直した。
その瞳には、もう先ほどまでの苦悶はなかった。
「ソード・グローリー――」
光が、一気に強さを増す。
「……ほう」
そらの表情に、初めて、微かな緊張の色が滲んだ。
品定めするように、目を細めてヒマリを見つめる。
次の瞬間、ヒマリの姿が掻き消える。
そらが咄嗟に展開した影の壁を、光を纏った剣閃が、紙のように容易く切り裂いた。
「――ッ!」
初めて、そらの顔から表情が消えた。
浅く裂かれた頬から、一筋の血が滴り落ちる。
「……計算外、ですね」
そらは後方に大きく跳び退り、間合いを取り直した。
息を整えるヒマリを、値踏みするように見つめる。
「なるほど。不意打ちが効かないなら、正面から崩すしかない、ということでしょうか」
そらの声には、まだ動揺の色はなかった。
ただ、これまでのような余裕とは違う、慎重な色が滲んでいる。
「そら……お願い、やめて……」
アサが、震える声で呼びかけた。
姉としての、最後の縋るような声。
そらは、その声にだけ、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
だが、それも一瞬のことだった。
「……ですが、今日のところは、ここまでにしておきましょう」
「――!?」
「これ以上長居をして、無理に成果を求める必要はありません。僕の目的は、あくまで姉さんの確保。今の状況で強行するのは、コストに見合いません」
淡々とそう告げると、そらは足元の影を再び広げ、その中へと身を沈めていく。
「待って……! そら……!」
アサの叫びが、夜の住宅街に虚しく響いた。
そらの姿は、影と共に、音もなくその場から消え去っていた。
静寂が戻る。
ヒマリの体を包んでいた光も、やがて静かに収まっていった。
「……アサ」
ハルトが駆け寄ると、アサはその場に崩れ落ちるようにして座り込んでいた。
頬を伝う涙が、街灯の光を鈍く反射している。
「……生きてた。生きてたのに……あんな、あんな目で、私のこと……」
言葉にならない嗚咽が、静かな夜に溶けていく。
ヒマリがそっとその隣に膝をつき、何も言わずに、その肩に手を置いた。
夜の住宅街に、静けさがゆっくりと戻ってくる。
だが、去り際に見せたそらの、あの冷静な瞳を思い出すたび、ハルトの胸には、拭いきれない不安が影を落としていた。




