76話 決戦準備
鎌倉高校前駅から、都心のキャンパスまでは決して近くない。
江ノ電で藤沢へ出て、小田急線に乗り換え、代々木上原からさらに地下鉄を乗り継ぐ。
乗換の度に地図アプリを睨みつけながら、ハルトはひたすら気を揉んでいた。
「アオイ、大丈夫? 電車、揺れるけど」
「平気です。それより……」
隣に座るアオイは、窓の外を流れていく夜の街並みをじっと見つめたまま、小さく声を落とした。
「ヒマリさんに、お会いするのは初めてです。……調べたことは、何度もありますが」
その一言に、ハルトは思わず苦笑した。
敵側の情報屋として、散々ヒマリのことを洗ってきたであろうアオイと、これから初対面するヒマリ。想像するだけで、胃の辺りがきりきりと痛む組み合わせだった。
「……とりあえず、僕から先に説明するから。アオイは、うんって頷いてるだけで大丈夫」
「わかりました」
電車を乗り継ぐこと一時間以上。
ようやく辿り着いた大学の正門前には、既に一人の人影が待っていた。
「ハルト君、遅かったですね」
いつもの制服姿ではなく、私服に着替えたヒマリが、腕時計にちらりと目をやりながら言った。
夜のキャンパスは人気が少なく、街灯の明かりだけが、静かに敷地内を照らしている。
「すみません、鎌倉から遠くて……。それより、先輩。急に呼び出してごめんなさい」
「いえ、電話の声があまりにも切羽詰まってましたから。何かあったんだろうというのは、察してます」
そう言ってから、ヒマリの視線が、ハルトの隣に立つ人物へと移った。
「……失礼ですが、こちらの方は?」
「あ、えっと。アオイ――秋津家で、その、お世話になってる人です。今日は一緒に、江ノ島に……」
しどろもどろになるハルトを見かねたように、アオイが一歩前に出て、丁寧に一礼した。
「栗島アオイと申します。……初めまして、ヒマリさん」
「はじめまして。……はて、どこかでお会いしたことがありましたか?」
ヒマリが小さく首を傾げる。
もちろん、面識などあるはずがない。
ただ、彼女の敏い勘が、目の前の少女に何か引っかかるものを感じ取っているのは、ハルトにも伝わってきた。
「本題に入っていいですか、先輩。時間が、あまりないんです」
ハルトが場の空気を変えるように、あえて硬い声で切り出した。
ヒマリは一瞬、眉を寄せたが、すぐに真剣な表情に切り替えて頷いた。
「……ええ、どうぞ」
三人は、人気のない中庭のベンチに腰を下ろした。夜風が、色づき始めた木々の葉を静かに揺らしている。
「先輩、信じてもらえるかわからないんですけど……。僕、実は、今日という日を、もう一度やり直してるんです」
「――は?」
ヒマリの表情が、初めて明確な戸惑いに変わった。当然の反応だった。
だが、ハルトは怯まずに続けた。
「詳しい仕組みは、僕にもうまく説明できません。でも、事実です。そして、そのやり直す前の世界で――アサが、何者かに攫われました。今夜のうちに」
「……アサが?」
「攫ったのは、そら――いえ、敵側では『スカイ』と呼ばれてる、人間に化けた協力者です。ファーベルって呼ばれてる存在の下で動いてます」
一気に情報を吐き出すハルトを、ヒマリはしばらく黙って見つめていた。
信じがたい話であることは、ハルトも重々承知している。
それでも、彼女の瞳の奥には、既に「検証すべき事案」として処理しようとする、いつもの冷静な光が宿り始めていた。
「……仮に、その話が全部本当だとして。あなたが今、それを未然に防ごうとしていることは、わかりました。それで、その『スカイ』とやらを止める算段は?」
「そこで、アオイの力を借りたいんです」
ハルトは、隣に座るアオイへと視線を移した。アオイは小さく頷き、静かに口を開く。
「……これから話すことは、ヒマリさんにとって、あまり気分の良いものではないと思います」
前置きしてから、アオイは淡々と、自分がファーベル陣営に情報を流す役割を担わされていること――そして、それを利用して、逆にスカイを誘い出す作戦を提案していることを説明した。
説明が終わる頃には、ヒマリの纏う空気が、明らかに冷たいものへと変わっていた。
「……つまり、あなたは、私達の情報を売っていた側の人間、ということですね」
「はい。否定はしません」
アオイは目を逸らさず、まっすぐにヒマリを見返した。
その態度に、ヒマリはしばらく無言のまま、値踏みするような視線を送り続けていた。
「先輩、お願いします。今は、アオイを信じてほしいんです」
ハルトが割って入るように言うと、ヒマリは小さく息を吐き、こめかみを指で押さえた。
「……ハルト君がそこまで言うなら。今は、緊急事態を優先します。後で、ゆっくり事情は聞かせてもらいますけど」
「ありがとうございます、先輩」
「それで? 具体的には、どこにスカイを誘い出すつもりなんですか」
ヒマリの問いに、ハルトは頷いた。
「アサのアパートの近くに、三人で待機しようと思ってます。もし敵が動いたら、その場で対応する形で」
「……アサの住んでる場所、正確な場所はわかっているんですか?」
その問いに、ハルトは一瞬、言葉に詰まった。
ハルトはよく考えてみれば、アサの部屋に一度も訪れたことがない。
もちろん、住所そのものを地図で確認したことなんてあるはずもなかった。
せいぜい最寄り駅がどこかくらいまでしか知らない。
「え、っと……確か、この辺りだったはず、みたいな感じで……。ヒマリ先輩は、知ってます……?」
「ええ、把握はしています。以前、何度かアサの家に遊びに行って女子会をしたことがあるので」
「そうなんですね……よかった」
(というか二人でそんなことしてたのか……。詳細は聞かないでおこう)
ハルトは心の耳をパタリと閉じることにした。
アオイが小さく首を横に振った。
「私が掴んでいる情報の中には、浅野さんの正確な住所は含まれていません。栗島の家が把握しているのは、大学とハルト君の家周辺の動きが中心ですので」
「……なるほど。それなら、まだこちらに分があるということですね」
ヒマリが顎に指を当て、思案するように呟いた。
「でしたら、待機場所も見直した方がよさそうです。三人で外に張り込んで、もしアサが先に動いてしまえば、後を追いかける形になる。それでは、対応が後手に回るリスクがあります」
「じゃあ、どうすれば……」
「私が、直接アサの部屋にお邪魔します。何か理由をつけて、今夜だけ、一緒にいさせてもらいます」
ヒマリの提案に、ハルトは思わず目を見開いた。
言われてみれば、それが一番確実だ。
アサ自身の傍に人がいれば、少なくとも誘拐そのものを未然に防げる。
「先輩がアサの部屋にいてくれるなら、確かに一番安全ですね……」
「ハルト君とアオイさんは、周辺で待機してください。アオイさんが流す偽の情報が、うまくスカイを引き寄せてくれれば、外で待ち構えている二人が対応する。私は、二人が外で戦闘を開始したことを確認したら、すぐにアサと一緒に前線に向かいます」
「アサと一緒に⁉」
「はい。その方が、アサを守りつつ、戦闘がしやすくなります。万が一の刺客にも対応しやすいので」
「確かに……。わかりました。……先輩、ありがとうございます」
夜風が、三人の間を静かに通り抜けていった。
ヒマリはしばらく黙考した後、静かに頷いた。
「……わかりました。他に選択肢もなさそうですし、乗ります」
そう言いかけたヒマリの表情が、不意にわずかに歪んだ。
「……ヒマリ先輩?」
「……いえ、大丈夫です。少し、頭が」
こめかみを軽く押さえたヒマリを見て、ハルトの心臓が、嫌な感覚と共に跳ねた。
一週目で、何度も目にした光景。
あの頭痛の始まりと、あまりにもよく似ていた。
「先輩、無理しないでください」
「本当に、平気ですから。……それより、時間がないんでしょう? 早く、詳しい段取りを詰めましょう」
何事もなかったかのように顔を上げたヒマリを見て、ハルトは僅かな不安を胸の奥に押し留めた。
夜のキャンパスに、三人の作戦会議は、そのまま静かに続いていった。




