75話 スパイ
「な、なんで……それを……」
震える声で問い返したハルトを、アオイはただ静かに見つめ返すだけだった。
やがて、彼女は小さく息を吐き、視線を海の方へと逃がした。
「……驚かないで聞いてほしいのですが」
「う、うん」
「私は、あなたの味方ではありません。少なくとも、表向きは」
「――え?」
あまりにも静かな声で告げられたその一言に、ハルトは一瞬、意味を飲み込みそこねた。
「今あなたたちを狙っている連中――ファーベルと呼ばれる存在とその一味に対して、私は情報を流す役目を栗島の家から任されています。あなたがここに来ること、江ノ島に来ていること、そういった些細な情報も、本来なら私が報告するはずのものでした」
淡々とした告白だった。
責められることを覚悟しているような、それでいてどこか吹っ切れたような口調。
「じゃあ、さっきの……マモンたちが新宿駅で待ち伏せしてたっていう、あの『情報筋』も……」
言いかけて、ハルトはハッとした。
それは、まだこの世界では起きていないはずの記憶だ。
危うく口を滑らせるところだった。
だが、アオイはその名前に、僅かに眉を動かしただけだった。
「……その話は、私にはわかりません。ただ、そういう役割を担わされていることだけは、事実です」
(そうか。まだ、それは起きてない……)
ハルトは内心で自分に言い聞かせながら、話を先に進めた。
「でも、それならどうして今、僕にそれを話すんだ? 黙っていれば僕には絶対わからなかったのに」
「……時計を使うほどの覚悟を、あなたが決めたからです」
アオイはようやく、まっすぐにハルトを見た。
「詳しい事情までは聞きません。今は聞く資格もないと思っています。ですが、ハルト様が後戻りしてまで守ろうとしたものがあるなら――それを、敵側の駒のまま、黙って踏みにじりたくはありません」
その声には、迷いと、それでも譲らない芯のようなものが同居していた。
(アオイが、僕の……いや、家族の味方でいてくれた……?)
すぐには消化しきれない情報だったが、悠長に驚いている時間はないと、ハルトは頭を切り替えた。
一週目の記憶が、警鐘のように蘇る。
――そらがアサを連れ去ったのは、この日からおよそ半日後の、深夜だった。
「アオイ、時間がない。詳しい話は後でちゃんと聞かせてほしいけど、今は、アサを守ることが最優先なんだ」
「アサさん……ハルト様のご友人の魔法少女が?」
「うん。このままだと、今夜のうちにアサが攫われる。犯人にも心当たりがある」
ハルトはアオイの肩を掴み、はっきりと言い切った。
(というか、やっぱりそこまで掴んでいたんだな。それはそうか)
ハルトは心の中で苦笑いをしながらポケットからスマートフォンを取り出す。
震える指で、ヒマリの番号を呼び出した。
「ヒマリ先輩に連絡して、作戦を立てる。アオイにも、力を貸してほしい」
「……私で、できることなら」
「うん。アオイには――」
ハルトは一度言葉を切り、頭の中で組み立てたばかりの算段を、慎重に言葉にしていく。
「いつも通り、敵に情報を流しているふりをしてほしいんだ。ただし、今回だけは、こっちが仕組んだ情報を流す。時間と場所を指定して、そらを――犯人を、僕らの用意した場所におびき寄せる」
「……そら……スカイを、名指しで?」
「そこは、まだ詳しく話せないんだ。ごめん。でも必ず、あとで全部話すから」
アオイは一瞬だけ目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「わかりました。……ハルト様が、そう決めたのなら」
呼び出し音が鳴る中、ハルトは電話を耳に当てながら、砂浜に沈む夕日を見つめた。
もう、二度と同じ後悔は繰り返さない。
「――もしもし、ヒマリ先輩。今すぐ、話したいことがあるんです」




