73話 オレンジ
真っ白だった視界に、色が滲むように戻ってくる。
塩気を含んだ生ぬるい風が頬を撫で、波の音が耳の奥に流れ込んできた瞬間、ハルトは弾かれたように我に返った。
目の前には、茜色に染まる相模湾。
傾いた夕日が、寄せては返す波の先端をオレンジ色に光らせている。
――ここは。
(鎌倉高校前の……浜辺……?)
おとはと交わした会話の記憶は、まだ鮮明にハルトの中に残っていた。
それなのに、今この身体は、まるで何事もなかったかのように、夏の夕暮れの砂浜に立っている。
戸惑う間もなく、隣から声が聞こえた。
「そろそろ、駅に……」
海風に髪を揺らしながらハルトの方を向いて言いかけたアオイの言葉が、不意に途切れる。
その台詞に、ハルトの背筋がぞわりと粟立った。
覚えている。全部、覚えている。
この後、アオイの視線が自分の後ろに釘付けになって、振り返ればそこに――。
「アオイ、離れて――!!」
考えるより先に、声が出ていた。
今度は、待たない。ハルトはアオイの腕を掴み、力任せに自分の方へと引き寄せる。
だが、振り返った先に立っていたのは、記憶の通りの青年の姿をした「何か」だった。
観光客のような服装。異様な眼力。そして西日に伸びる、あまりにも歪な『影』。
(知ってる……知ってるのに……!)
知っていても、ハルトにできることは何もなかった。
前回と同じように、青年の影が意思を持つスライムのように輪郭を崩し、黒い染みとなって砂浜を這ってくる。
覚悟していたはずの一撃が、それでもハルトの反応速度を上回った。鋭い刃のような影が跳ね上がり、肩口を掠める。
「ぐ……ッ!」
「ハルト様……!」
焼けるような痛みに顔を歪めながらも、ハルトは歯を食いしばってアオイを背に庇い続けた。
(次だ。次に、マモンたちが……)
助けが来る。そう思っていた。前回はそうだったから。
だが、いくら待っても、頭上から場違いな軽口も、三つの人影も現れない。
――当然だ、と頭の隅で冷静な自分が囁く。あの三人は、時を戻すために魔力を使い果たしたばかりなのだ。眠りについていて、今この瞬間には駆けつけられない。
(じゃあ、今度は、誰が……)
影が再び形を変え、より鋭く、より確実にとどめを刺すための二撃目を鎌首のようにもたげる。
ハルトが最悪を覚悟して奥歯を噛んだ、その時。
「――もう、いいです」
背中から聞こえたのは、聞き慣れたはずの、いつもと変わらない静かな声だった。
だが、次の瞬間に響いた「音」は、ハルトの知っているアオイのものではなかった。
パン、と空気が弾けるような音がして、視界の端が青白く発光する。
気づけば、ハルトとアオイを包み込むように、薄く透き通った六角形の膜――結界のようなものが、幾重にも重なって展開されていた。
迫っていた二撃目の影の刃が、その膜に触れた瞬間、まるで最初から存在しなかったかのように、音もなく霧散する。
「……え?」
ハルトは声を失ったまま、自分の背後にいるはずのアオイを振り返った。
片手を静かに前に掲げたアオイが、いつもの無表情のまま、しかしその瞳の奥にだけ、これまで見たことのない硬質な光を宿して、青年の姿をした「何か」を見据えていた。
「――お引き取りください。この方には、指一本触れさせません」
淡々とした、それでいて有無を言わせない声だった。
アオイが軽く手を振ると、彼女を中心に薄く広がっていた光の膜が、面ではなく刃のような形を取って、青年の輪郭ごと影を切り裂いた。
断末魔の声すら上げず、青年の形をしていた「何か」は、黒い霧となって砂の上に崩れ落ち、やがて夕風に溶けるように消えていく。
静寂が戻った。
波の音だけが、何事もなかったかのように渚に響いている。
「……アオイ?」
震える声で名前を呼んだハルトに、アオイはようやく、いつもの無表情に戻って向き直った。
「……お怪我を、見せてください」
「え、いや、それより、今の……アオイ、今、何を……」
「先に、治療をさせてください」
有無を言わせぬ口調に、ハルトは思わず口をつぐんだ。
アオイはハルトの傷ついた肩にそっと手をかざす。彼女の手のひらから、まるで満月の光を溶かし込んだような、淡く柔らかい光が滲み出した。
温かい。
焼けるようだった傷の痛みが、まるで温かい湯に浸したかのように、じんわりと引いていく。
数秒後、光が収まると、裂けたシャツの下の傷は、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく塞がっていた。
「……治った」
呆然と呟くハルトを前に、アオイはようやく手を下ろし、小さく俯いた。
「黙っていて、すみませんでした」
「アオイ、それって……その、魔法、だよね? アオイも、魔法が使えたの……?」
問いかけに、アオイは僅かに視線を彷徨わせた。
いつもの底の知れない無表情の奥で、何かを迷っているのが、今のハルトには不思議とわかった。
「……はい。使えます。ずっと、隠していました」
「どうして、今まで……」
「今まで、明かす必要が――いいえ」
アオイは一度言葉を切り、それから、まっすぐにハルトを見据えた。
夕日を受けたその瞳は、いつもの深海のような無機質さではなく、初めて見る、迷いを孕んだ光を湛えていた。
「必要が、なかったわけではありません。……ただ、私が、明かす勇気を持てなかっただけです」
その声には、微かな震えが滲んでいた。
ハルトは、何も言えなかった。
ただ、目の前にいる少女が、今までずっと自分に見せてこなかった顔をしていることだけは、痛いほどに伝わってきた。
沈みゆく夕日が、二人の影を長く長く、渚の向こうまで伸ばしていく。
波の音だけが、いつまでも静かに、二人の間に横たわる沈黙を埋めていた。




