72話 再出発
しばらくの間、白い空間には、おとはの押し殺した嗚咽だけが響いていた。
ハルトは、何も言わずに、その音を聞いていた。
慰めの言葉をかけることも、背中をさすることもできない。ただ、隣に座って、彼女が顔を上げるのを待つことしか、今の自分にはできなかった。
やがて、おとはは、ゆっくりと顔を上げた。
目元は赤く腫れていたが、その奥にある光は、先ほどまでとは違っていた。
「……ごめんね。年甲斐もなく、みっともないところを見せてしまって」
「いえ……」
「でもおかげで、少しだけ、腹が決まった気がする」
おとはは、静かに紅茶のカップを置いた。
その仕草には、もう先ほどまでの、逃げ場を探すような揺らぎはなかった。
「ハルト君。一つ、大事な話をしないといけないの。今度こそ、ちゃんと」
「……はい」
おとはの声のトーンが変わったことに、ハルトは息を呑んだ。
「あなた達が向こうで発動させたタイムリープ――あれは、ハルト君の腕時計と、三人の悪魔の力があって、初めて成立したものだよね?」
「はい。そして、アサの最期の願いが、おとはさんの封印を解いてくれて……」
「うん。だから、ここで一つ、あなたに謝らないといけないことがあるの」
おとはは、まっすぐにハルトを見た。
「タイムリープが成功すれば、娘の死はなかったことになる。そうなれば、あの子の願いも、なかったことになる。……私の封印は、また元に戻ってしまうの」
「え……?」
ハルトは、思わず声を上げた。
「な、なんでですか。せっかく、解けたのに」
「時間を巻き戻すというのは、その地点より後に起きた出来事を、すべて『なかったこと』にするという行為だから。私の封印が解けたのも、その『後に起きた出来事』の一つに含まれてしまうの」
淡々とした説明だったが、その内容は、ハルトの胸に重くのしかかった。
「じゃあ……せっかく、こうして話せたことも……」
「ハルト君の記憶だけは、大丈夫よ。あの悪魔達の魔法が、ちゃんと守ってくれる。だから、この時間のことも、この話をしたことも、あなたの中には残り続けるわ」
おとはは、そう言って、微かに笑った。
「でも、私自身は――巻き戻った瞬間、また、あの何もない暗闇の中に逆戻り。振り出しに戻る、というやつね」
「そんな……」
ハルトは、拳を握りしめた。
「それじゃあ、意味ないじゃないですか。ここまで話せたのに、また、振り出しに……」
「意味は、あるわよ」
おとはの声は、静かだが、はっきりとしていた。
「だって、今度は、覚えている人がいるんだもの」
その言葉に、ハルトは、はっとした。
「私自身の記憶は消えても、あなたの記憶は残る。私がどこで、どういう形で封じられているのか、それを知っている人間が、この世界に一人だけいる。それって、すごく心強いことだと思わない?」
おとはは、そこで、ハルトの手を、そっと両手で包み込んだ。
「だからね、ハルト君。もう一度、私の封印を解きに来てちょうだい。今度は、あの子達自身の手で……いいえ、それが難しいなら、あなたの手を借りてでも構わない。もう一度、私を、あの子達に会わせて」
その目には、もう迷いも、逃げも、なかった。
ただ、まっすぐな願いだけが、そこにあった。
「……はい」
ハルトは、頷いた。
「約束します。今度こそ、必ず」
「うん。ありがとう」
おとはは、涙の跡が残る顔で、それでも柔らかく笑った。
「さて。そろそろ、私の話に付き合ってくれる時間も、終わりみたいね」
そう言った瞬間、白い空間の輪郭が、僅かに揺らぎ始めた。
「あ……」
「大丈夫。あなたはこれから、本来行くべき場所に戻るだけだから」
おとはは、静かに立ち上がった。
「みゆきにも、よろしく伝えてちょうだい。姉には、本当に苦労をかけているから」
「……はい。必ず」
ハルトは、頷いた。
おとはの姿が、光の中に溶けるように、薄くなっていく。
「じゃあね、ハルト君。……今度は、笑って会いましょう」
その言葉を最後に、視界が、真っ白な光に飲み込まれていった。
一瞬だけ、時間の感覚が消える。
その静寂の中で、ハルトはふと、右手の中指に触れた。
そこにはもう何もない。当然だ。あの指輪をもらったのは、まだ何も知らなかった頃の自分だった。
(――もう、要らないんだ)
危険を知らせてくれる指輪。だが、これから起きることを、ハルトはもう全部知っている。誰が、どこで、どんな目に遭うのか。何を選べば、何を守れないのか。
警告なんて、要らない。ちゃんと自分の目で見て、自分の意志で動く。今度こそ。
光が、視界の全てを塗り潰していく。
その中で、ハルトは静かに、そう決めていた。




