71話 責任と償い
しばらくの沈黙の後、ハルトは、それでも口を開いた。
「……あの、おとはさん」
「なに?」
おとはは、優雅にカップを傾けたまま、静かに視線を上げた。
「この後、おとはさんは、どうするつもりなんですか。アサや、そら君と」
その問いに、おとはは、ふっと目を細めた。
「……難しいことを聞くんだね」
はぐらかすような、軽い口調だった。
「まあ、いろいろあるけれど。とりあえず、そらには一発、げんこつくらいはくれてやらないとね。あんな立派な悪人面になっちゃって」
冗談めかした言葉に、ハルトは少しだけ笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
「……それだけ、ですか」
「それだけ、って?」
「アサに会って、何を言うつもりなんですか。そら君に会って、何を伝えるつもりなんですか」
おとはの指先が、カップの縁でぴたりと止まった。
「……そういうのは、会ってから考えればいいことじゃないかしら」
「本当に、そう思ってます?」
ハルトの声は、まだ静かだった。
けれど、その奥に、何かがゆっくりと固まっていくような響きがあった。
おとはは、しばらく答えなかった。
視線を、カップの中の紅茶に落としたまま、動かない。
「……ハルト君。あなた、意外と鋭いんだね」
やがて、絞り出すように、おとはが言った。
「正直に言うとね。私、あの子たちに会うのが、少し――ううん、正直に言えば、かなり怖いの」
「怖い、って」
「六年よ。私は六年も、あの子たちの前から消えていた。その間に、あの子たちがどれだけのものを失って、どれだけ傷ついたか。私は、その場所にいなかった」
おとはの声は、少しずつ、いつもの余裕を失っていった。
「アサは、母親のいないところで、名前まで奪われて、たった一人で戦い続けた。そらは……そらに至っては、私が守ってやれなかったせいで、あんなところまで堕ちてしまった」
そこで、おとはは、笑おうとした。
いつものように、軽い調子で、この話を終わらせようとするみたいに。
「だから、まあ、その。何て言えばいいのかしらね。……気まずい、というか」
「――それは、逃げてるだけですよね」
ハルトの一言が、その笑いを遮った。
おとはが、はっとしたように顔を上げる。
「な、なに? 急に」
「気まずいとか、怖いとか。それは、逃げるための理由を並べてるだけに聞こえます」
「ちょっと、ハルト君。あなたね……」
おとはの声に、僅かに苛立ちが混じった。
年下の少年に、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「私だって、辛いの。母親として、何もしてあげられなかった自分を、許せるはずがないじゃない」
「じゃあ、どうするんですか」
「だから、それは……」
言葉に詰まったおとはは、視線を逸らした。
「……時間を、かけるしかないんじゃないの? 私にも、心の整理をする時間が」
「時間って、いつまでですか」
ハルトの声が、少しずつ、大きくなっていく。
「一年ですか。十年ですか。それとも、一生かけて『そのうち』って言い続けるつもりですか」
「そこまで言うことないでしょう!」
おとはが、初めて声を荒らげた。
その目には、怒りというより、追い詰められた者特有の、動揺の色が浮かんでいた。
「私だって、辛い立場なの! あなたに、何がわかるって言うの?」
「わかりませんよ」
ハルトの声も、震えていた。
「わかりません。おとはさんが六年間、どんな思いで囚われてたのかも、母親としてどれだけ苦しんだのかも、僕にはわからない」
一度、言葉を切った。
腕の中に残る、ヒマリの重みが、まだ消えていない。
「でも」
ハルトは、拳を握りしめた。
「僕は、アサが、どれだけ一人で抱え込んでたか知ってます。名前も奪われて、それでも誰にも助けを求めずに、笑ってた。そら君が――」
声が、一瞬、詰まった。
「そら君が、僕の大事な人を殺しました。ヒマリ先輩は、僕の目の前で、冷たくなりました」
おとはの表情が、大きく揺れた。
「それでも、僕は、ここでおとはさんに、ちゃんと向き合ってほしいんです。時間をかけるとか、心の整理とか、そういう先延ばしじゃなくて」
「……ハルト君」
「なんでですか。なんで、今、それを言わないんですか。目の前に、僕がいるのに。あの子たちの話を、今できるのに」
おとはは、何も言わなかった。
ただ、唇を、固く結んでいる。
「母親、なんですよね」
ハルトの声は、もう、怒鳴ってはいなかった。
むしろ、絞り出すような、静かな声だった。
「だったら、怖くても、辛くても……向き合ってやってくださいよ」
長い沈黙が落ちた。
おとはは、俯いたまま、動かなかった。
その肩が、微かに震えているのが見える。
やがて、ぽつり、と。
「……ずるいね、ハルト君」
顔を上げないまま、おとはは呟いた。
「そんな正論、大人にぶつけるものじゃないわよ」
その声は、笑おうとしているのに、うまく笑えていなかった。
カップの上に、透明な雫が、一つ、落ちた。
「私は……」
続く言葉は、出てこなかった。
おとはは、ただ、両手で顔を覆った。
ハルトは、それ以上、何も言わなかった。
言うべき言葉を、もう持っていなかった。
白い空間に、おとはの、押し殺した嗚咽だけが、しばらくの間、静かに響いていた。




