70話 浅野家の子供達
「まずは、そらの話からしましょうか」
おとはの声色が、僅かに低くなった。
先ほどまでの、どこか楽しげな響きが薄れ、代わりに、覚悟を決めたような静けさが滲む。
「……そらくん、ですか?」
「ええ。あの子……見ない間にあんなに不良になっちゃって! 次あったら、説教しないと!」
おとはは、わざとらしいくらい明るく笑ってみせた。
けれどその笑い方は、どこか無理に作られたもののように、ハルトの目には映った。
ハルトは、乾いた笑い声をあげた。
なんと返せばいいのか、わからなかった。
「……でも、私はそらに酷いことをしてしまった」
おとはの声から、笑いの気配が消えた。
テーブルの上の紅茶が、ゆっくりと湯気を細くしていく。
「そうなんですか?」
「うん。あの子が学校のことで悩んでるの、私は気づいてあげられなかった」
その言葉と同時に、白く霞んだ空間の輪郭が、ふわりと揺らいだ。
まるで水面に映る景色が波紋で歪むように、目の前の光景が塗り替えられていく。
ふと、ハルトの目の前には見知らぬ誰かの映像が流れてきた。
小さくて内気な男の子と、それを蹴ったり暴言を浴びせて遊んでいる背の高い男子たち。
それを、庇う一人の少女。
そして、母親の前で、笑顔を見せる、二人の子供たち。
「……私を封印したのは、そらよ。私が悩みに気づいてあげられなかったあの子は、ファーベルという悪魔に目をつけられた」
一人の好青年が内気な少年に差し伸べた優しい手。
それを優しく、そして力強く握り返すまだ小さな子供。
映像は、そこで途切れた。
おとはの声は、どこまでも静かだった。
怒りも、憎しみも、そこにはない。あるのは、ただ、深い悔いの色だけだった。
「だからね、もし今度会えたら、いっぱいあの子とお話しないとね……」
その言葉の軽さと、目の奥の暗さの落差に、ハルトは何も言えなかった。
慰めの言葉も、相槌さえも、この場にはふさわしくない気がした。
沈黙が、白い空間に、しばらく漂う。
やがて、おとはは小さく息を吐き、両手でぱんと膝を叩いた。
その仕草だけは、妙に軽やかだった。
「少し暗い話が続くわ。娘についても、話しておかないとね」
「……アサの話?」
「うん。……ねぇ、ハルト君。あなたは、娘の本当の名前を知ってる?」
「もちろん知ってますよ。アサの本当の名前って……あれ?」
アサって、名前、何て言うんだっけ?
そう言えばハルトは、彼女から名前を聞いたことがないことを思い出した。
周りの人間も、彼女のことは、浅野さんだとか、アサだとか、苗字で呼んでいた。
今まで当たり前だと思っていた事実を思い返して、強烈な違和感がハルトを襲う。
まるで、記憶の中にぽっかりと穴が空いているような感覚だった。
思い出そうとすればするほど、その穴の縁が、するりと逃げていく。
「落ち着いて、ハルト君。彼女は、名前を封印されているの」
「……え?」
おとはは、静かにハルトを見た。
その目には、隠し事をする者特有の、どこか申し訳なさそうな色が滲んでいた。
「あの子の本当の名前は――今、この世界の誰も、呼ぶことができない」
ハルトは、すぐには言葉の意味を飲み込めなかった。
「誰が、そんなことを……」
「それは、今はまだ、話せない」
おとはは、そう言って、優しく、けれどきっぱりと首を振った。
「ごめんなさい。焦らしているわけじゃないの。ただ、順番があるんだ、こういう話には」
「……」
「一つだけ言えるのは――その封印は、悪意でかけられたものじゃない、ということ。むしろ、あの子を守るためにかけられたもの。それだけは、覚えておいてちょうだい」
ハルトは、しばらく黙り込んだ。
知らなかった真実が、また一つ増えた。それも、今まで隣にいた友人の、根幹に関わるような真実が。
「……そうだったんですね」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「……そんな顔しないで。まだ、話したいことは、山ほどあるんだから」
おとはは、そう言って、また新しく紅茶を注いだ。
湯気が、白い空間の中に、静かに立ち上っていく。




