69話 優しい場所
目を開けると、そこには何もなかった。
床も、天井も、壁さえも判然としない、白く霞んだ空間。
音も、匂いも、温度さえも感じられない、あまりにも静かな場所だった。
「ここは……」
「目が覚めたんだね」
声のした方を振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。
どこか見覚えのある風貌をしている。
「アサ……? それにしてはどこか大人びてるような……?」
「それはそうよ。だって私は、彼女の母親なんだから」
女性――おとはは、そう言って、柔らかく微笑んだ。
その微笑み方に、ふと、知ってる人の面影が重なる。
「アサの……母?」
「うん。初めまして、秋津ハルト君。私は、浅野おとは」
「僕の名前を……どうして? いや、そもそも、そら君の話では封印されていたはずじゃ……」
そらが語った母の話を、ハルトはよく覚えていた。
「そうね。でもその封印を解いたのはあなたなの。秋津ハルト君」
「僕が……? いつ?」
「あなたが娘の封印を解いたときね」
「アサの封印を解いたとき……? どういうことだ? だってあの中には、アサの身体しか入って……」
「確かにあの中には、娘の跡しか入っていなかった。より正確に言えば、あの娘が残した最期の魔法が、私の封印を解いたの」
おとはの声が、僅かに揺れた。
それは、悲しみとも、誇らしさともつかない、複雑な響きだった。
どうやらおとはの話だと、アサの母親の封印を解きたいという願いが、彼女自身の確率を操作する能力と反応して、母親の封印を解除する魔法として発動したらしい。
自分の命が長くないと悟った、あの残像の瞬間。
きっとアサは、心のどこかで、自分がいなくなった後の家族のことを案じていたのだろう。
そう考えれば、彼女の最期の力が、母への望みと、確率を操作する力とが結びつき――結果として、この封印を解くための、思わぬ鍵として作用したのだとしても、不思議ではない気がした。
「……そうだったのですね」
ハルトは、それだけ言うのがやっとだった。
「うん。そして、ハルト君。君とはいっぱい話したいことがあるの」
「え?」
「え? じゃない。娘の友人なんだから、丁寧に対応するのが、親の務めでしょ?」
「は、はぁ……」
「なんだか腑に落ちない顔ね。じゃあまずは肩慣らしに、この空間がどこかの話からするね」
「……そうだ。確か僕はタイムリープの魔法を使用して、過去からやりなおそうとして……とすると、確かに、ここはどこなんだ?」
「はぁ。気づくのが遅いわよ。……まぁ、それだけ疲れていたってことでしょうけど」
おとはは、そう言って、優雅に指を鳴らした。
何もなかったはずの空間に、瀟洒なソファーとテーブルが現れる。
その上には、湯気を立てる紅茶と、上品な焼き菓子が、音もなく用意されていた。
「どうぞ、座りなさい。紅茶は好き?」
「あ、ありがとうございます」
なんだかどこかで同じような経験をしたことがあるなというデジャブを感じながら、ハルトはソファに腰かけ、紅茶を含む。
浅野家の女性というのは、どこかこういう空気を纏う血筋なのかもしれない。
「それで、この空間は、まだタイムリープ前の空間よ。正確には、タイムリープを一時中断した状態の空間かしら?」
「あ、えっと、そうなんですね?」
「まあ、わからなくても構わないわ。要は私が魔法で作った結界空間の中だと思いなさい」
「わかりました」
「そうね。先に何か聞きたいことはあるかしら?」
聞きたいことと聞かれて、ハルトの頭の中には、いくつもの疑問が一斉に浮かび上がった。
あまりに多すぎて、何から尋ねればいいのか、うまく整理がつかない。
「まぁ。そう聞かれてもわからないよね。わかった。タイムリープの手土産に、私達の話からしてあげる」




