66話 弱者
「さて、わが主は行ってしまわれましたし、少しお話でもしましょうか、秋津ハルト君」
そらの声は、先ほどまでと変わらない、あの穏やかな響きのままだった。
だが、もうその声のどこにも、ハルトが知っていた「そら」の温もりは残っていなかった。
皮膚の下を這う黒い紋様が、まるで血管のように顔から首筋にかけて浮き上がり、彼の輪郭を人間ではない何かへと変えつつある。
「て、てめぇ!」
床に崩れ落ちたヒマリの体を抱きかかえたまま、ハルトは震える声を絞り出した。
「おっと、口のきき方には気を付けてくださいね。大好きな先輩のようにはなりたくないでしょ?」
そらは口の端をわずかに吊り上げ、静かに一歩、二歩とハルトへ歩み寄る。
その足取りには、緊張も焦りも、微塵も感じられなかった。獲物を前にした余裕そのものだった。
「僕達を騙してたのか!」
ハルトの声が、怒りと悲しみで裏返る。
喉の奥から、熱いものが込み上げてくるのを、必死に抑え込んでいた。
「騙す? そうですね。この場合は、だまされる方が悪いですが」
そらの声には、微塵の悪びれもなかった。
むしろ、退屈な問いに答える教師のような、突き放した口調だった。
「秋津ハルト君、まず君は、アサが攫われた当日に、僕が現れた時点で、自分の違和感に従うべきでした。ですが、それをあなたがしなかった理由は単純です」
そらは、そこで言葉を区切った。
「あなたが馬鹿だからです」
その言葉は、刃物よりも鋭く、ハルトの胸の奥深くを貫いた。
反論しようとした。
何か、言い返したかった。
だが、開いた口からは、掠れた息だけが漏れ、言葉にはならなかった。
指輪の光も、これまで積み重ねてきた特訓も、信じてきた絆も――全てが、目の前の現実の前では、あまりにも無力だった。
「続きの話をしたければ、もっと賢くなってから、出直してきてください。……もっとも、そんな日は永遠に来ないと思いますが」
そらの姿が、闇に溶けるようにして遠ざかっていく。
ハルトはそれを止めることもできず、ただ、両腕の中にある、既に温もりを失いつつある体を、強く抱きしめることしかできなかった。
どうしてこうなってしまったのか。
何がいけなかったのか。
指輪の宝石は、もう青くも黄色くも光っていない。
ただ、鈍く濁った色のまま、静かに沈黙していた。
ハルトの中には、決して消えることのない後悔が、腐った鍋のように、いつまでも重く回り続けていた。
「……ると君! ハルト君!」
遠くから、聞き覚えのある声がした。
だが、その声すら、今のハルトには水の中で聞くように、ひどく歪んで届いた。
肩を強く揺さぶられ、ハルトが次に気づくと、目の前に、マモン、エンヴィー、そして、ミニラストがいた。
「……あれ? ミニラスト……? どうして? どうしてそんなにボロボロなの?」
ハルトの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
目の前の光景と、今しがた起きたこととの区別すら、うまくつかなくなっている。
三人の姿は、あの別れ際とは似ても似つかないほど傷だらけだった。
マモンの整えられたスーツは所々が黒く焦げ、エンヴィーの片角はさらに深く折れている。
ミニラストの纏う黒いドレスも、裾が無残に裂けていた。
「そんなことは今はいいの! とにかく、今すぐ何があったのか、教えて!」
ミニラストの叫びに近い声が、ようやくハルトの意識を、目の前の現実へと引き戻した。
視線を落とすと、腕の中のヒマリの顔が見える。
安らかとも言える、静かな表情だった。
まるで、少しだけ眠っているかのように。
だが、その体からはもう、何の温もりも、鼓動も、返ってこなかった。




