65話 黒い刃
「……進みましょう」
ヒマリの静かな声に、ハルトとそらは頷いた。
デストロイだった何かは、既に白い光と共に完全に消え去っていた。
後には、コンクリートの床に残る焦げ跡と、静寂だけが横たわっている。
ヒマリの纏う空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
頭痛に苦しめられていた頃の危うさはなく、ただ静かで、澄んだ強さがそこにあった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ええ。……不思議なくらい、体が軽いです」
ヒマリは自分の掌を見つめながら、小さく微笑んだ。
三人は、これまでよりも幅の広い通路を進んでいった。
壁の質感が変わり、コンクリートから、まるで古い教会を思わせる石造りへと変化していく。
奥に進むにつれ、空気そのものが重く、粘つくように濃密になっていった。
やがて、通路の先に、ぼんやりとした光が見えてきた。
そこは、円形の広間だった。
天井は見上げるほど高く、中央には、玉座のようにも見える古びた石の椅子が一つ、静かに佇んでいる。
その椅子に、一人の男が腰掛けていた。
歳の頃は判然としない、整った顔立ちの男だった。
学者のような佇まいで、指を組み、こちらを興味深そうに見つめている。
腰元に提げているのは、剣でも杖でもなく、使い込まれた古い革表紙の手帳が一冊だけだった。
「……ようこそ。ここまで来られたのは、あなた方が初めてですよ」
男が、朗らかな声で告げた。
まるで来客を迎えるかのような、自然な口調だった。
「お前が……!」
ハルトが叫んだ。
この男が誰なのか、確信はなかった。
だが、この場に漂う圧倒的な気配――これまで出会ったどの敵とも違う、静かで底知れない何かが、彼がこの物語の中心にいることを、否応なく告げていた。
「初めまして、というべきでしょうか。私はファーベル。……あなた方が探し求めている、魔法少女は、私が預かっています」
「アサを返せ!」
ハルトが叫び、駆け出そうとした。
「返してもらいます」
ヒマリもまた、剣に変わるアクセサリーを構えながら、ファーベルへと視線を向けた。
その瞳には、迷いの欠片もなかった。
ファーベルは、椅子に座ったまま、微動だにしなかった。
ただ、静かに、口の端を吊り上げただけだった。
「返す、と言われましてもねぇ。私にも、私の目的がありますので」
その笑みに、ハルトの背筋を、言いようのない悪寒が駆け抜けた。
「……行きます」
ヒマリが地を蹴った、その瞬間だった。
「――ぁ」
鋭く一瞬だけ響いた金属音。
短い、掠れた声。
ヒマリの体が、不自然にぐらりと揺れた。
「先輩……?」
ハルトが振り返る。
ヒマリの胸から、腹にかけて。
背後から突き出された、黒く鋭い何かの切っ先が、深々と貫いていた。
「……そら、君……?」
ヒマリの口から、掠れた声が漏れる。
振り返ったその視線の先には、たった今まで一緒に歩いてきたはずのそらが、無表情のまま、彼女の背に手を――否、その手から伸びた黒い刃を、突き立てていた。
「な……」
ハルトは、目の前で起きていることが理解できなかった。
理解が追いつく前に、そらが刃を引き抜く。
ヒマリの体が、糸の切れた人形のように、力なく崩れ落ちた。
「ヒマリ先輩っ!!」
ハルトの絶叫が、円形の広間に響き渡った。
床に広がっていく赤黒い染みを見つめながら、ハルトは動けなかった。
ほんの数分前まで、確かに笑っていた人が。
自分自身の痛みと向き合い、新しい力を手にしたばかりの人が。
たった一瞬で、その命の光を失っていた。
「なんで人間って、こんなに愚かで、あっけないのでしょうね……」
そう呟くそらの表情は、何かこみあげてくる笑いを我慢するかのようだった。
「これはこれは。予想以上に、あっけないものですね」
ファーベルが、退屈そうにため息をついた。
そらは、刃についた血を、まるで埃でも払うかのように無造作に振り払った。
その仕草には、迷いも、感情の揺らぎも、一切見当たらなかった。
「そら、君……お前、まさか……」
ハルトの声は、震えていた。
そらは、ゆっくりと視線を落とし、床に倒れたヒマリを見つめた。
その目に浮かんでいたのは、憎しみでも、勝利の愉悦でもなかった。
ただ、どこまでも静かな――何かを観察するような、冷たい眼差しだった。
「よくやりました。私の可愛い臣下、スカイ君。この場を任せてもいいかな?」
「もちろんでございます。わが主」
ハルトは何も声が出せなかった。
ファーベルは静かに出口に向かう。
そして最後に一言。
「秋津ハルト君。君は非常に愚かな存在だ。何も見えていない。人間社会には学校というシステムがありながら、君はそこで何を学んでいるんだい?」
それを最後に、ファーベルはこの部屋から消えた。




