62話 暴力
悪魔三人の気配が完全に途絶えた通路を、ハルト、ヒマリ、そらの三人は無言のまま進んでいた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、辺りは不気味なほど静かだった。
通路の照明はさらにその数を減らし、薄暗がりが濃さを増している。
足音だけが、やけに大きく反響していた。
「……大丈夫かな、三人とも」
ハルトがぽつりと呟く。
振り返っても、もうそこには何もない、ただの暗い通路が続いているだけだった。
「信じましょう。彼らは、私達が思っている以上に強かです」
ヒマリが前を向いたまま、静かに答えた。
だがその声には、いつもの落ち着きの中に、微かな緊張の色が滲んでいる。
「……ヒマリさん、少し顔色が悪いようですが」
そらが横から気遣うように声をかけた。
「……いえ、大丈夫です。少し、集中しているだけですから」
ヒマリはそう答えて、剣に変わるあのアクセサリーに手を添えたまま、歩みを緩めなかった。
しかし、その足取りは、ハルトの目から見ても明らかにぎこちなかった。
(先輩……?)
ハルトが声をかけようとした、その時だった。
「……っ」
ヒマリが小さく呻き、片手で自分のこめかみを強く押さえた。
「ヒマリ先輩!?」
ハルトが慌てて駆け寄る。
ヒマリは壁に手をつき、荒い息を吐きながら、こみ上げる何かを必死に堪えるように、奥歯を強く噛みしめていた。
「……ぇ……出て、くるな……」
掠れた声で、誰にともなく呟く。
その様子は、ハルトが今まで一度も見たことのないものだった。
いつも冷静で、感情を表に出すことのない先輩が、まるで自分の内側にある何かと戦っているかのように、苦しげに顔を歪めている。
「ヒマリさん、これは……」
そらもまた、驚いたように目を見開いていた。
(ラストは消えたのに……どうして!?)
ハルトはとっさの状況にパニック状態になりかける。
「先輩、無理しないで……!」
ハルトが手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「うっせーんだよ! 耳障りな声を出すんじゃねぇ!」
廊下の向こうから怒鳴り声が近づいてきた。
三人の視線が、一斉にその方向へと向く。
暗がりの奥、通路を完全に塞ぐようにして、一つの巨大な影が佇んでいた。
人間の輪郭を保ってはいるが、その体躯は明らかに常軌を逸していた。
天井に届かんばかりの背丈、丸太のように太い両腕、そしてその肌は、まるで腐り落ちる寸前の果実のように、黒く爛れた紋様で覆われている。
かつては人間だったのだろう、その面影がわずかに残る顔には、濁った黄色い双眸が二つ、ぎらぎらと輝いていた。
ヒマリが、ハッと息を呑んで顔を上げた。
こめかみを押さえていた手が、ゆっくりと下ろされる。彼女の顔から、一切の表情が消えていた。
「……お父さん」
その一言は、ハルトが今まで聞いたどんなヒマリの声よりも、平坦で、そして凍りついていた。
ヒマリが父親と呼ぶ存在……かつて、ハルトがヒマリの記憶の中で見た、ヒマリとヒマリの母に暴力を振るっていた存在だ。
でも、もうその存在は「人間」ではない。
巨大な影を持つ「何か」は、ぎょろりと濁った瞳をヒマリへと向け、そして醜く口の端を吊り上げた。
「お前。……お前のせいで、俺はこんな姿になったんだぞ」
デストロイと化した男は、ぎょろりとした目でヒマリを睨みつけながら、唸るように言った。
「……は?」
ヒマリの声に、初めて感情らしきものが滲んだ。
それは怒りでも悲しみでもなく、ただただ理解が追いつかないという、純粋な困惑だった。
「お前が警察を呼んだ。お前が、俺から全部奪ったんだ。仕事も、家族も、居場所も……全部だ」
男はぶつぶつと、まるで何かの呪詛を唱えるように繰り返した。
「あの時、お前が余計なことをしなければ、俺は今頃……」
「――黙れ」
ヒマリの声は、決して大きくなかった。
だが、その静けさが、逆に空間の温度を凍りつかせた。
「今頃、何だと言うんですか。母を殴り続けて、私を怯えさせ続けて、それで満足するまで続けるつもりだったんですか」
デストロイの黄色い瞳が、ぎろりとヒマリを見据える。
「うるせぇ! 子供のくせに、生意気な口を叩くな!」
その怒声と共に、丸太のような右腕が振り上げられた。
子供に手を上げる時と、寸分違わない仕草だった。
何も変わっていない。
あの部屋で、幼いヒマリを打とうとした時と、全く同じ動作だった。
「……ハルト君、そら君。下がっていてください」
ヒマリが静かに、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
振り返ったその横顔は、ひどく凪いでいた。
「これは、私の――」
「問題だなんて言わせません」
ハルトが、思わず口を挟んだ。
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「先輩一人の問題じゃない。僕もそら君も、ここにいます」
ヒマリが一瞬、驚いたようにハルトを振り返る。
だがすぐに、小さく首を横に振った。
「……いいえ。ハルト君、あなたはまだ、この相手と対峙できるレベルにありません。無茶をすれば、足手まといになるだけです」
その言葉は、いつもの厳しさそのものだった。
だが今は、その厳しさの奥に、微かな怯えのようなものが滲んでいるのを、ハルトは感じ取った。
(先輩は、僕を守ろうとしてるんじゃない。……僕に、これを見せたくないんだ)
「くだらねぇ茶番はもう終わりだ!」
デストロイが痺れを切らしたように吠え、地を蹴った。
爛れた皮膚の下で膨れ上がった魔力が、そのまま巨腕へと集束していく。
「――来ます!」
ヒマリの叫びと同時に、腰のホルダーから小さなアクセサリーが瞬時に一振りの剣へと姿を変えた。
振り下ろされた巨腕が、通路の床を粉々に叩き割る。
轟音と共に舞い上がる粉塵の中を、ヒマリの小柄な体が、まるで一陣の風のようにすり抜けていった。
「がっ……!」
一閃。
デストロイの腕に、深い斬撃が走る。黒い霧のようなものが、傷口から噴き出した。
「小賢しい真似を……!」
デストロイが咆哮を上げ、もう片方の腕を大きく振り回す。
ヒマリはそれを紙一重で躱しながら、着地と同時に距離を取った。
肩で息をするヒマリの額には、すでにうっすらと汗が滲んでいる。
先ほどの頭痛の余韻が、まだ体のどこかに残っているのだろう。
「……お前も。俺の言うことを聞かない、あの女と同じ目をしてやがる」
デストロイが低く唸る。
その言葉に、ヒマリの剣を握る手が、ほんの一瞬、震えた。
「――母は」
ヒマリの声が、初めて微かに揺れる。
「母は、あなたの言うことを聞かなかったんじゃない。あなたが、聞く価値のあることを、一度も言わなかっただけです」
その言葉を最後に、ヒマリは再び地を蹴った。
ハルトはそらと共に、壁際に追いやられながら、その戦いを、ただ見つめることしかできなかった。
握りしめた拳の中に、無力感だけが冷たく居座っていた。




