61話 終わりの始まり
異変は、前触れもなく訪れた。
「……ちょっと。足音、増えてない?」
先頭を歩いていたミニラストが、ふと足を止めて耳を澄ませた。
その瞬間、四方の壁――いや、天井や床までもが、ずるり、ずるりという不気味な音を立て始める。
「うわっ……なんだこれ!?」
ハルトが思わず声を上げた。
先ほどまでの数体程度の異形とは比べ物にならない数の影が、通路の奥から、そして背後からも、次々と姿を現し始めている。狭い通路を埋め尽くすように押し寄せてくるその光景は、まるで黒い波が押し寄せてくるかのようだった。
「数だけじゃないですね。……先ほどまでの個体とは、明らかに質が違います」
ヒマリが剣を構えながら、鋭く息を吐いた。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
関節の曲がり方も、動きの俊敏さも、これまでの雑魚とは一線を画していた。
「チッ……。舐めてたわね、この数は」
ミニラストの声から、余裕の色が消えていた。
「マモン、なんだこりゃぁ……!?」
「ワタクシも油断していたようです。……恐らく、我々がある程度進んだところで一気に囲い込む算段だったのでしょう」
マモンが冷静に分析しながらも、その額には珍しく焦りの色が浮かんでいた。
「そら君、大丈夫ですか?」
ヒマリが叫ぶように問いかける。
「え、ええ、なんとか……!」
そらが後方で異形の爪をかろうじて避けながら答えた。
六人は背中合わせになるようにして、四方から迫る異形の群れと対峙した。
エンヴィーの拳が、マモンの魔法が、ヒマリの剣が、次々と異形を打ち払っていく。
だが、倒しても倒しても、その数は一向に減る気配がない。
まるで底なしの沼から次々と湧いて出てくるかのようだった。
「くそ……! キリがねぇ!」
エンヴィーが吐き捨てるように叫ぶ。
彼の拳にも、わずかに疲労の色が滲み始めていた。
ハルトは自分の無力さを噛み締めていた。
剣も使えず、まともな攻撃魔法もない自分は、ただヒマリの背中に隠れることしかできない。
悔しさで奥歯を強く噛みしめる。
「――マモン、エンヴィー」
不意に、ミニラストが低い声で二人の名を呼んだ。
「ハルト君、ヒマリさん、そらさん! ここは私達に任せて、先に行きなさい!」
ミニラストの声には、これまでの飄々とした軽さが微塵もなかった。
「そんな……! 三人だけを置いて行けるわけ……!」
「いいから行け! お前がいたところで、正直邪魔だぁ!」
エンヴィーが荒々しく吠える。
乱暴な言葉だったが、そこには紛れもない本気の切実さが滲んでいた。
「言い方はともかく、エンヴィーの言う通りです。この数、私達三人で抑え込むのが最も効率的です。あなた達が足止めされていては、本来の目的――アサさんの救出が果たせません」
マモンが淡々と、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
「でも……!」
ハルトが言いかけたその時、ヒマリが強く彼の腕を掴んだ。
「行きましょう、ハルト君。彼らを信じます」
ヒマリの瞳には、迷いと、それを振り切ろうとする覚悟が同時に浮かんでいた。
「ヒマリ先輩……」
「大丈夫。私達は、伊達に悪魔やってるわけじゃないの。……ほら、行った行った!」
ミニラストが振り返らずに、片手をひらひらと振った。
その背中は小さいはずなのに、今はやけに頼もしく見えた。
「……わかった! 絶対に、無事でいてくれよ!」
ハルトは叫ぶようにそう言うと、ヒマリ、そらと共に、異形の群れの隙間を縫うようにして駆け出した。
「馬鹿ね。私達を誰だと思ってるのよ」
ミニラストの呟きは、駆け去っていく三人の背中には届かなかった。
三人の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、悪魔三人の纏う気配が、明確に変わった。
「さぁて。ここからが本番ってわけね」
ミニラストの姿が、ぶれるようにして消える。
次の瞬間には、既に三体の異形を薙ぎ払い、地面に叩き伏せていた。
「久しぶりに骨のある数だな、オイ!」
エンヴィーの拳が唸りを上げるたびに、異形の頭部が次々と粉砕されていく。
返り血ならぬ黒い霧を全身に浴びながら、その顔にはむしろ獰猛な笑みすら浮かんでいた。
「ワタクシとしては、こういう力任せの解決法は好みませんが……」
マモンが指を鳴らすと、周囲の異形の足元が一斉に崩落する。
無数の影が、悲鳴すら上げる間もなく闇の底へと消えていった。
三人の実力は、これまでとは次元が違った。
数の暴力で押し切ろうとする異形の群れを、まるで刈り取るようにして一体、また一体と沈黙させていく。
通路には黒い霧が立ち込め、視界すら悪くなるほどだった。
「思ったより呆気ねぇな。この程度の頭数、俺一人でも十分だったんじゃねぇか?」
エンヴィーが不満げに舌打ちをした、その時だった。
「フハハハハ」
底冷えするような、それでいてどこか愉悦を孕んだ笑い声が、通路の奥から響き渡った。
三人の悪魔の動きが、同時にピタリと止まる。
黒い霧の向こうから、ゆっくりと一つの影が姿を現した。
乱れたスーツを着崩し、金色の双眸を爛々と輝かせた男――かつてホームでハルト達三人を圧倒的な力で退けた、あの悪魔だった。
「お、親玉……?」
「エンヴィーさん?」
マモンはエンヴィーと金色の悪魔を見比べた。
「久しぶりだな、ドグ・ラ・エンヴィー。久しく顔を見なかった気がするぞ」
「……ッ! てめぇ!」
「やめなさい、エンヴィー!」
ラストが制止するより速く、エンヴィーは金色の悪魔に殴り掛かった。
しかし……。
「ふん」
ドガーンという衝撃音と共に、エンヴィーは遠くまで吹っ飛ばされた。
「そんな……。単純な戦闘力で言ったら、この中で一番強いエンヴィーさんが……吹っ飛ばされた……?」
マモンはあっけに囚われてしまった。
「あんた、何者よ」
ミニラストは金色の瞳の悪魔に問う。
金色の悪魔は高いところから、見下すように「フンッ」と鼻で笑った。
「何がおかしいのよ」
「いや、雑魚の癖に強がるお前らを見るのが愉快なもんでな」
「なんですって……!」
「おっと早まるな。直にお前ら二人も、あやつのように俺様の力にひれ伏させてやろう」
金色の悪魔は、未だに伸びているエンヴィーを一瞥した。
「だかまぁ。せっかくだ。冥土の土産に俺様の名をお前らの魂に刻んでやるのも悪くはない」
金色の悪魔は、腕を組んだ。
「俺様はカイト。いずれは魔界を統べる王となる者に至る者だ。二度は言わん。今の言葉を貴様らの足りない頭に刻んでおけ!」
「カイト……ですって……」
ミニラストは、ラストから送られてきている記憶を掘り出した。
20年以上前、どこからともかく、突然魔界に現れた、金色の瞳の少年。
少年は、魔界に降り立った次の瞬間から、それまで魔界の強者と呼ばれてきた存在を倒していき、一時期魔界の力のバランスを崩壊させかけた。
その圧倒的な強さから、魔界の者は、彼をこう呼んだ。
『金色の魔王』
そして彼は、自らを『カイト』と名乗ったのだ。
カイトはゆっくりと三人を見渡し、口の端を吊り上げた。
「さて、俺様はわが主の令でここでお遊戯をしなければならぬ。退屈させてくれるなよ」
その言葉と同時に、彼の右手首に嵌められた金色の腕輪が、鈍く輝きを増した。
「……マモン」
「わかっていますよ」
ミニラストが低く警告を発するが、その声はどこか硬い。
相手の力量を、身をもって知っている者だけが持つ緊張だった。
しかし、ミニラストが構え直した瞬間、カイトの姿が掻き消えた。
マモンが急いで、自らとミニラストを包むように防御魔法を展開する。
「な……!」
しかしカイトの拳が防御の膜ごとマモンの体を粉砕するように打ち抜いていく。
「がはっ……!」
マモンの体が宙を舞い、床に叩きつけられる。
「くっ……!」
ミニラストが渾身の力で放った光弾が、カイトの体に直撃する――かに見えた。
だが、彼はそれを片手で無造作に払いのけると、瞬く間にミニラストの懐に入り込み、その細い体を軽々と持ち上げて床に叩きつけた。
「ぐ……あ……!」
「ハハハ! いいぞ、いい悲鳴だ! だが所詮、貴様らも小物よ!」
カイトの高笑いが、暗い通路にこだまする。
三人の悪魔は、なす術もなく地に伏していた。
彼らが必死に稼いだ時間の先で、ハルト達がまだ気づいていないその圧倒的な力の差だけが、静かに、確実に、この場に刻み込まれていった。




