60話 異空間
裂け目のような通路を抜けた向こうに広がっていたのは、想像していたような「異世界」ではなかった。
ひんやりとした空気と、コンクリートを基調とした無機質な壁。
所々に等間隔で設置された照明が、青白い光を廊下に落としている。
まるで地下鉄のトンネルか、あるいは巨大な地下駐車場のような、奇妙に「現実的」な空間だった。
「……なんか、思ってたのと違うような」
ハルトが辺りを見回しながら、拍子抜けしたように呟く。
「ハルト君は何を期待していたんですか? ……もしかして、溶岩とか、髑髏の玉座とか、そういう類のものとか?」
ヒマリが呆れたように、隣で軽く肩をすくめた。
「いや、そこまでは言わないけど……。もっとこう、おどろおどろしい感じなのかなって」
「安心しなさいな。人間界に紛れて活動するために作られた拠点だもの。むしろ、あんまり浮いた造りにしたら怪しまれるでしょ」
先頭を歩くミニラストが、振り返らずに答える。
「魔力遮断のためのコンクリート、それに一般人が万が一迷い込んだ時のためのカモフラージュも兼ねてるんでしょうね」
マモンが顎に手を当てながら分析するように言った。
その口ぶりには、感心とも呆れともつかない色が混じっている。
「つまんねぇ。もっとこう、来た瞬間ぶっ叩けるようなのがいると思ったんだけどよ」
エンヴィーが不満げに舌打ちをした。
その言葉に応えるように、通路の先――曲がり角の向こうから、ずるり、ずるりと何かを引きずるような音が近づいてきた。
「……お望み通り、来たみたいですよ」
マモンが静かに告げると同時に、暗がりから三体の人影が姿を現した。
人間の形をしているが、明らかに人間ではない。
関節が不自然な方向に曲がり、目のあった場所には黒い穴が二つ空いているだけの、粗末な出来損ないのような姿。
「雑魚ね」
ミニラストが冷めた声で切り捨てた。
「雑魚だろうがなんだろうが、俺の出番だ!」
エンヴィーが吠えると同時に飛び出し、黒いコートを翻して先頭の一体に肉薄する。
振るわれた拳が、ろくに反応もできなかった異形の頭部を粉々に打ち砕いた。
黒い霧となって崩れ落ちるそれを一瞥もせず、エンヴィーはそのまま二体目へと突っ込んでいく。
「相変わらず脳筋ですね、あの人は」
マモンが呆れたようにため息をつきながらも、指を軽く鳴らした。
見えない衝撃波のようなものが走り、残った一体の足元が唐突に崩れ、そのまま闇の中へ引きずり込まれるようにして消えていく。
一瞬の出来事だった。
「……え、もう終わり?」
ハルトが呆然と呟く。剣を構える暇すらなかった。
「拍子抜けした? まあ、こんなものよ。所詮、末端の使い捨て」
ミニラストが肩をすくめる。
その後も、通路を進むたびに似たような異形が姿を現したが、そのどれもがエンヴィーの一撃、あるいはマモンの魔法によって瞬く間に片付けられていった。
ヒマリが剣を抜く暇すらないまま、いくつもの角を曲がり、いくつもの分岐を越えていく。
「思ったより、呆気ないですね」
ヒマリがぽつりと漏らした。
彼女の声には、安堵よりもむしろ、微かな戸惑いの色が滲んでいた。
「まあ、私達がいるからね。この程度の相手なら」
ミニラストが得意げに胸を張る。
「そら君は、大丈夫ですか? 初めての実戦のはずですが」
ヒマリが振り返り、後方を歩くそらに気遣うような声をかけた。
「……ええ、大丈夫です。皆さんが強いおかげで、僕は何もしなくて済んでいますから」
そらは控えめな笑みを浮かべて答えた。
その表情に不自然な点はない。
だが、ハルトはふと、彼の視線が一瞬だけ、通路の奥――まだ誰も足を踏み入れていない暗がりへと向けられたことに気づいた。
しかしハルトが深く考える余裕もないまま、また新たな角を曲がる。
戦闘が続くにつれて、いつしか一行の間には、奇妙な弛緩した空気が流れ始めていた。
「ふぅ……。思ったより、拍子抜けな敵ばっかりね」
アサのことを気にかけて張り詰めていたはずのハルトの表情にも、いつしか小さな笑みが戻っていた。
「なんか、僕がいる意味あるのかな、これ」
「あるに決まってんだろ。おめぇは貴重な荷物持ちなんだからよぉ!」
「エンヴィーさん、それ酷くないですか?」
軽口を叩き合う空気に、ヒマリも小さく笑みをこぼす。
「まあ、ここまで順調なら、案外あっさり終わるかもしれませんね」
その言葉に、誰も違和感を覚えなかった。
これまでの敵の弱さ、あまりにも滑らかに続く行軍。
それが「順調」なのか、それとも「誘導」されているだけなのか――そのどちらであるかを疑う者は、この場に誰一人としていなかった。
四人と一人の少年は、緩んだ空気のまま、なおも奥へ奥へと進んでいく。
通路の照明が、少しずつ、その数を減らし始めていることにも、誰も気づかないまま。




