58話 待ち合わせ
ハルトは、待ち合わせ場所に一番乗りで来た。
改札前を吹き抜ける人工的な冷房の風が、八月の湿った熱気をわずかに和らげている。
行き交う人々の靴音、発車メロディ、駅員のアナウンスが幾重にも重なり合う、いつもの駅の喧騒だった。
ここは新宿駅の小田急線乗り場の改札口。
4か月前、ここでアサと初めて会話した。
いや、正確にはその前に、大学のオリエンテーションで、少しだけ会話をしているのかもしれないが、当時のハルトは陰キャすぎて、記憶には残っていなかった。
記憶を辿ろうとしても、当時の景色はぼんやりと霞がかっていて、はっきりとは思い出せない。
ただ、あの時とは比べ物にならないほど、自分の中の何かが変わってしまったことだけは確かだった。
「……そっか。まだ4か月なんだ」
口に出してみると、その短さが逆に実感を伴って重くのしかかってくる。
たった4か月で、ハルトは魔法の存在を知り、YouTuberとしての日常の裏側に、命のやり取りをする世界があることを知った。
そして今、その日常はもう戻らないところまで来ている。
薬指に嵌めたヒマリの指輪に、無意識に親指が触れる。
ひんやりとした金属の感触が、妙に今の自分を落ち着かせてくれた。
「待たせてしまいましたか? ハルトさん」
背後から声をかけられ、ハルトは我に返った。
振り返ると、そこには柔らかい笑みを浮かべたそらが立っていた。
物腰は丁寧で、声のトーンも穏やかだが、その表情のどこかに、感情の温度が読み取れない硬さのようなものが滲んでいる。
初めて顔を合わせたときから、ハルトはずっとその違和感を拭えずにいた。
「あ、そらさん。いえ、僕も今来たばかりです」
「そうなのですか? ……ヒマリさんはまだ来ていないようですけど……?」
そらは辺りを見渡すように、軽く首を巡らせる。
その仕草すら、どこか作られたもののように見えてしまうのは、ハルト自身の警戒心のせいかもしれない。
「先輩は諸事情で遅れるって連絡があったので……」
「なるほど、そうでしたか」
そらはポンと手を打つ。
「そうだ。ハルトさんに渡しておきたいものがありました」
「渡したいもの?」
「これです」
そらはポケットから取り出したのは、ハルトが見たことがあるものだった。
「それって……」
何故見たことがあったのかと言うと、つい数週間前に、それと似たようなものを、ヒマリからもらっていたからである。
銀色の輪、そしてその中に微かに息づくような光。
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
「おや、知っていましたか? ディスティニーリングです」
ハルトはその指輪にくぎ付けになる。
「あ、ああ。……でも、誰の……」
「これは、姉から預かったディスティニーリングです。彼女が攫われる前、僕に、もし私に何かあったら、そのリングを私の代わりにハルトさんに渡してほしいと言われました」
「アサから……僕に……?」
リングの宝石の部分は、黄色く光っている。
彼女の身が危険にさらされている証拠だ。
その光を見た瞬間、ハルトの喉の奥が締め付けられるように苦しくなった。
無事でいてほしい。
ただそれだけを、頭の中で何度も繰り返す。
だが、何かひっかかる。
何かもっと考えないといけないことがあるはずなのに、ハルトは目の前の状況を理解するのに必死で、何も考えることができなかった。
指先が、震えそうになるのを堪える。
「……これ、本当に僕が貰っていいんだね?」
「はい。姉からはそう承っています」
「わかった」
ハルトは、自分の薬指に、二つ目の指輪を装着した。
冷たい金属が肌に触れる感覚が、二重の重みとなって手のひらに残る。
一つはヒマリから託された絆の証。
もう一つは、今どこにいるかもわからないアサからの、言葉にならない祈りのようなものだった。
「お待たせしました」
その時、遅れたヒマリが待ち合わせ場所に到着した。
ヒマリはいつものメガネをかけておらず、代わりに戦闘服を兼ねたシスター服を最初から着ている。
装備を整えてきたのだろう、いつもより張り詰めた空気が彼女の周りで漂っていた。
「遅れてしまってすいません。装備を整えるのに時間が掛かってしまって……」
ヒマリはそこで言葉を切り、ハルトの左手の薬指を眺めた。
彼女の瞳が、わずかに細められる。
「ハルト君、その指輪は……」
「アサのだって……。そら君からもらった」
ヒマリの顔は少し険しくなる。
しかし、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。
「まったく、ハルト君は女たらしですね」
「えっ? いや、そんなことはないと思うけど……」
「いえ、ハルトさん。部外者ですので状況はわからないですけど、普通の人間は薬指に2つも同時に指輪をはめないと思いますよ」
「そうそう、そら君のいう通りです」
そらの相槌に、ヒマリが我が意を得たりとばかりに頷く。
二人のやり取りに、ハルトは反論の言葉を探すが、うまく見つからない。
「も、もう、わかったよ! とにかく行こうよ」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、ハルトはわざと強い口調で話を打ち切った。
「ハハハ。そうですね。行きましょう。敵のアジトへの入口まで、ご案内します」
そらの声色は、依然として穏やかなままだった。
まるでこれから観光地にでも案内するかのような、あまりに軽い響き。
その言葉を合図に、駅の喧騒が一瞬だけ遠のいたような錯覚をハルトは覚えた。
そらを先頭に、三人は歩き出した。




