57話 必ずお帰りください
「一つだけ、僕の話をさせてください」
そらは、空になったグラスの縁を指でなぞりながら、そう切り出した。
「僕がやりたいことは、単純です。母を助けたい。姉を助けたい。それだけなんです」
当たり前すぎて、誰も反論できない言葉だった。
「母は七年、あそこにいます。姉は、たぶんまだ数日です。……順番が逆になってしまうんですが、僕は、姉を先に迎えに行きたい」
「場所を、知っているのか」
ハルトが尋ねると、そらは静かに頷いた。
「おおよそは。留学中に、そのために調べていたので」
ヒマリの表情が、はっきりと硬くなった。
「それは、先ほど伺った話より、はるかに重い情報です。なぜ最初に言わなかったのですか」
「順番に話した方が、信じてもらえると思ったからです。いきなり場所から言われても、怪しいでしょう」
筋は通っている。
通りすぎているような気もしたが、ハルトには反論のしようがなかった。
「藤宮さん。今の話も、上官の方に報告してください。全部です」
「……当然、そうします」
「はい。そのうえで、お願いがあります」
そらは、テーブルに両手を置いて、深く頭を下げた。
「僕と一緒に、姉を迎えに行ってもらえませんか」
店内のざわめきが、一段遠のいた気がした。
「僕は戦えません。浅野家の魔法は、人を傷つけるようにはできていないんです。場所はわかっても、それだけです」
顔を上げたそらの目は、まっすぐハルトを見ていた。
「お二人の力が要るんです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてヒマリが、ひどく静かな声で答えた。
「お断りします」
ハルトは思わず彼女の横顔を見た。
「情報は上官に上げます。組織として、必ず動きます。ですが、私たち三人で行くことは、できません」
「理由を、聞いてもいいですか」
「私に、その資格がないからです」
ヒマリはそれ以上、何も説明しなかった。
そらは少しだけ困ったように笑って、静かに立ち上がった。
「わかりました。無理を言ってすみません」
伝票を取ろうとしたそらの手を、ハルトが慌てて止めた。
押し問答の末に割り勘に落ち着いたその手つきが、高校生にしては大人びすぎていて、ハルトはなぜか少しだけ、この青年を信じたくなった。
「連絡先だけ、置かせてください。気が変わったら、でいいので」
そらはそれだけ言って、店を出ていった。
追いすがりもせず、粘りもしなかった。
その日の夜。
ハルトのスマホが鳴った。ヒマリからだった。
『……ハルト君。今、大丈夫ですか』
「うん。どうだった、報告」
少しの沈黙のあと、ヒマリは短く言った。
『待機です』
「……待機」
『情報は上に上がりました。裏を取って、部隊を編成して、それから動く。何週間かかるかは、わからないそうです』
声に抑揚がなかった。
それが逆に、彼女がどれだけ怒っているかを伝えていた。
『土方さんは、正しいことを言っています。裏の取れていない情報で人を死地に送るのは、組織としては最悪の判断です。私も、逆の立場なら同じことを言います』
「……先輩」
『でも』
そこで、初めて声が揺れた。
『これから……私達が助けに行けないこれからの時間……何週間も、アサはあそこにいるんです』
ハルトは、スマホを握る手に力を込めた。
『ハルト君。私は、あの人に断ってよかったと思っています。……ううん、違いますね。安心したんです。断る理由が、ちゃんとあってよかったって』
「なんでそんな言い方するんだよ」
『私があなたたちを誘いました。覚えていますか。上から、あなたとアサを任務に組み込めと言われて、私はそれを持って行ったんです。断ればよかったのに』
あのカフェの、アイスコーヒーのストローを弄っていた指先を、ハルトは思い出した。
『危険な仕事だと知っていて、私はあの席に座りました。その結果がこれです。私はもう一度、同じことをしようとしていた。だから、断る口実ができて、ほっとしたんです。……最低ですよね』
「……先輩」
言わなければならない、とハルトは思った。
今言わなければ、たぶん一生言えない。
「僕、先輩に隠してることがある」
電話の向こうが静かになった。
ハルトは全部話した。
江ノ島で襲われたこと。
ミニラストと、マモンと、エンヴィー。契約したこと。悪魔のボスを倒すという条件。
人間界を絶望で塗り潰そうとしている勢力のこと。
そして、それが今日そらの口から出た話と、寸分違わず重なっていたこと。
話し終えると、長い沈黙があった。
『……ハルト君』
「うん」
『それは、いつの話ですか』
「つい、昨日の話なんだ。アサから連絡がかかってくる、ほんの数時間前の話」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『どうして』
声が震えていた。
『どうして、すぐに電話してくれなかったんですか』
「今日……三人で集まった時に言うつもりだったんだ。ほんとに。……そしたら」
そのあとが続かなかった。
『……ごめんなさい』
謝ったのは、ヒマリの方だった。
『違いますね。責める資格、私にはないです。私だって、あなたに黙っていたことがいくつもある』
しばらく、二人とも黙っていた。
電話の向こうから、微かに、彼女が息をつく音が聞こえた。
『ハルト君。一つだけ、確認させてください』
「なに」
『あなたは、行くんですね』
ハルトは、天井を見上げた。
土方の言葉が、まだ耳に残っている。
他のエクソシストの足手まといになる。
的確すぎる事実だった。
反論できなかった。
今も、できない。
それでも。
「行くよ」
自分でも驚くくらい、あっさりと声が出た。
「僕がいたって何の役にも立たないのは、わかってる。でも、あいつが帰ってきたときに、僕が家で待ってたって知ったら、たぶん一生、からかわれる」
『……そんな理由ですか』
「そんな理由だよ」
電話の向こうで、ヒマリが小さく笑ったのがわかった。
笑ったあと、彼女はしばらく黙っていた。
『わかりました』
「先輩」
『私は総務省の人間です。命令に背けば、たぶん、いろいろ終わります』
その「いろいろ」に何が含まれているのか、ハルトには想像することしかできなかった。
児童養護施設から魔法塾へ、そして管理局へ。
彼女がこれまで積み上げてきたものの全部が、そこに入っているのだろう。
『でも、あなた一人で行かせたら、間違いなく死にます』
「……返す言葉もない」
『ですから、行きます。あなたを守るために』
迷いのない声だった。
『浅野そらさんには、私から連絡します。ハルト君は、明日の朝までに支度をしてください。……それと』
「なに」
『眠れないと思いますが、寝てください。寝不足の人間から死にますので』
通話が切れた。
ハルトは、しばらくスマホを見つめたまま動けなかった。
旅行の支度をするのは、慣れているはずだった。
これまで何十回とやってきた。
時刻表を眺めて、切符を買って、リュックにカメラと三脚と充電器を詰める。
そのはずなのに、今夜は何を入れればいいのか、まるでわからなかった。
結局、いつもとほとんど同じ荷物になった。
「お出かけですか」
振り返ると、部屋の入口にアオイが立っていた。
「……うん。二、三日、帰らないかも。母さんには、合宿だって言っといて」
「かしこまりました」
アオイは、どこへ、とは聞かなかった。
誰と、とも、何をしに、とも聞かなかった。
「アオイ」
「はい」
「……なんで、何も聞かないの」
アオイはほんの少しだけ、ハルトの顔を見た。
「お答えになりたくないことを、お聞きするつもりはありません」
それだけ言うと、彼女はすっと部屋に入ってきて、机の上に置きっぱなしになっていたものを取り上げた。
なんの変哲もない、古い腕時計。
「お忘れですよ」
差し出されたそれを、ハルトは黙って受け取った。
いつだったか、この家に来たばかりのアオイから、同じように手渡された物だった。
宗介の形見。
ヒマリが解析して、「どのような形であれ、必ずハルト君の役に立つように作られている」と言った魔道具。
金具を留めると、少しだけひやりとした感触が手首に残った。
「ハルト様」
部屋を出ようとしたアオイが、廊下で足を止めた。
その背中は、こちらを向いていなかった。
「行ってらっしゃいませ、とは申しません」
「……え?」
「必ず、お帰りください」
返事を待たずに、アオイは階段を降りていった。
ハルトは、手首の時計を見下ろした。
秒針が、いつもと同じ速さで進んでいる。
窓の外は、まだ夏の夜だった。




