55話 彼女の弟
「浅野家のご令嬢がさらわれた、か……」
いつも着ているよれよれの白衣のポケットに手を突っ込みながら、土方はうーむと低く唸った。
無機質な総務省異界管理局の執務室には、ひどく重苦しい沈黙が降りていた。
ヒマリとハルトは、血の気を失ったようなとても暗い顔をして立ち尽くしている。
「そうなってくると、話は変わってくる。彼女が連れ去られてしまった以上、君たち二人だけで、作戦に出すわけにはいかない」
ハルトとヒマリはだんまりしている。
それはそうだ。
今まで、ヒマリとアサがいることで、ハルトの未熟な戦闘力をカバーしていた。
アサが抜けた現状では、ヒマリとハルトだけでは、パーティーとしての戦力バランスはかなり悪い。
また、どんな事情があろうと、二人はまだ大学生で、成人したばかりの存在である。
いくら総務省異界管理局が人手不足とはいえ、戦力的に不安がある存在を戦闘任務に出すわけにはいかなかった。
「……浅野家のご令嬢が心配か?」
土方の静かな問いかけに、ハルトとヒマリは何も答えない。
いや、答えられなかった。
心配でないはずがない。
胸が張り裂けそうなほどの焦燥感が、ハルトの中でどす黒く渦巻いている。
「さっきも言ったが、お前ら二人だけで戦闘任務に参加させることはこちらとしてもできないし、ヒマリはともかく、ハルト君に関しては、他のエクソシストの足手まといになる以上、他のパーティーに合流しての戦闘もさせられない」
冷酷だが、的確すぎる事実。
ハルトは悔しさに下唇を少し強く噛んだ。
微かに鉄の味が口の中に広がる。
「まあとどのつまり、君たち二人は、この後、浅野家のご令嬢が帰ってきたときに、温かく迎える準備をしておけという話だ」
土方はパイプ椅子から席を立ちあがり、窓から外の景色を眺めた。
その広い背中は、これ以上の議論を受け付けないという明確な「拒絶」を示していた。
「話はこれで終わりだ。質問文句その他、何もなければすぐに帰りなさい」
結局、ヒマリもハルトも、湧き上がる無力感を抱えたまま何も言えないまま、土方の部屋を追い出されてしまった。
「これから、どうします? ハルト君」
「……とりあえず、帰るよ。これからのこと、一人で考えたい」
「……そうですね。わかりました」
どんよりとした鉛のような足取りで、ヒマリとハルトが駅に向かって歩き始めたその時だった。
夏の蒸し暑い風が、二人の間をすり抜けていく。
「少しいいですか?」
ふいに、誰かが二人に話しかける声が聞こえた。
ヒマリとハルトは立ち止まり、振り返る。
そこには、どこか見覚えのある風貌の、背が高い一人の青年が立っていた。
整った顔立ちに、スッと通った鼻筋。
その瞳には、ハルトがよく知る『相棒』と重なる、不思議な意志の強さと面影が宿っているように見えた。
「あの、秋津ハルト君と、藤宮ヒマリさんですよね?」
「ええ」
「あ……はい」
「よかった、人違いじゃなくて……」
「あの、あなたは……?」
ヒマリは怪訝な顔をして、青年に素性を訪ねた。
「おっと失礼。いつも姉がお世話になっています」
「姉……え? 待って?」
『姉』という単語と、目の前の青年の顔立ちがパズルのように組み合わさり、何かに気づいたハルトはハッと息を呑んで驚いた。
「はい。僕は、浅野そらと言います。姉がいつもお世話になっております」
青年——アサの弟であるそらはそう言って、どこか大人びた落ち着いた所作で、二人に向けて丁寧にお辞儀をした。




