52話 明日、二人に話そう
「さて、話はこんなところかしら」
ミニラストは流木から降りると、ドレスの裾についた砂を軽く払った。夕闇はすっかり濃くなり、波の音だけが辺りを支配している。
「今日はもう遅いし、私達はこれで失礼するわ。……あ、そうそう」
思い出したように、ミニラストは振り返った。
「契約の詳細は追々連絡するから。マモン、ID交換しておいて」
「かしこまりました」
マモンが懐から、見慣れたスマートフォンを取り出す。
ハルトが呆然としている間に、画面には見慣れた緑色のアイコンのアプリが立ち上がっていた。
「では、失礼して。……はい、これでワタクシたちのグループに追加完了です」
「ちょっと待って。お前ら、普通にLINE使うの……?」
ハルトは思わず声を上げた。
悪魔という存在に対して抱いていた、どこか神秘的で人間離れしたイメージが、音を立てて崩れていく。
「あら、何かおかしい?」
ラストが心底不思議そうに首を傾げる。
「おかしいっていうか……。もっとこう、水晶玉とか、契約の紋章みたいなのでやり取りするものなんじゃ……」
「今どき水晶玉とか、逆に不便すぎるでしょう。既読機能もないし」
「既読機能で悪魔と契約の連絡を取り合うなよ……」
「何かあれば、それで連絡してください。……ああ、YouTubeのコラボの件も、そのうちまた改めてご相談させてください」
「こんな状況で、それ言う?」
ハルトが呆れて聞き返すと、マモンはにっこりと笑うだけだった。
「じゃあね、坊や。……メイドちゃんも」
ミニラストがアオイに向けて一言だけ添えると、アオイは無言のまま、小さく頭を下げた。
三人の悪魔は夕闇に溶けるようにして姿を消した。あとには、ハルトとアオイ、そして波の音だけが残された。
「……帰ろうか」
ハルトが声をかけると、アオイは黙って頷いた。二人は無言のまま、来た道を戻り、鎌倉高校前駅への階段を上った。
江ノ電の車内は、行きに見たあの賑やかさが嘘のように静かだった。
この時間になると観光客も減り、地元の乗客がぽつぽつと座っているだけだ。
窓の外には、もう真っ暗になった海の代わりに、ぽつぽつと灯る民家の明かりが流れていく。
ハルトはロングシートに腰掛けたまま、スマホの画面に表示された「トライアングルデビル」という名前のグループトークを見つめていた。
(僕は、いったい何を背負ったんだろう)
契約という言葉の重みが、今更になってじわじわと肩にのしかかってくる。
悪魔のボスを倒す――自分一人の力では到底無理な話だ。
アサやヒマリを巻き込むことになるのは避けられない。二人に、なんて説明すればいいのだろう。
いや、それだけじゃない。
(アオイのことも、巻き込んじゃったな)
隣に座るアオイをちらりと見る。
彼女は窓の外に視線を向けたまま、いつも通りの静かな横顔をしていた。
今日一日の出来事――旅行、襲撃、悪魔との対話――そのどれもが、彼女にとっても穏やかならざる体験だったはずだ。
なのに、その顔には疲労の色すら見えない。
(アオイは、本当に何も知らなかったのかな)
先ほどのアオイの発言が、頭の中で何度も反芻される。
『それ、後付けの理由ですよね』
あの場で誰よりも早く違和感に気づいたのは、他でもないアオイだった。
「……アオイ」
「なんでしょうか」
「さっき、その、ミニラストたちの話が『後付けだ』って、よくすぐに分かったね」
アオイの睫毛が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……勘です」
「勘、か」
「はい。勘です」
同じ言葉を、まるで自分に言い聞かせるように繰り返すアオイ。
ハルトはそれ以上、踏み込む気にはなれなかった。
彼女がそう言うなら、そういうことにしておこう。そう思う一方で、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。
電車は終点の藤沢駅に着き、二人は無言のままJRへの乗り換え口へと歩いた。
秋津家に着く頃には、時刻はすっかり夜の二十二時を回っていた。
「お風呂、先にどうぞ。すぐにご用意します」
玄関に入るなり、アオイはいつもの調子でそう言った。
あの海辺での出来事など、まるでなかったかのような、いつも通りの声だった。
「アオイこそ、先に休んでいいんだよ。今日、色々あったし」
「いえ。……私は、ハルト様のお世話をするのが仕事ですから」
そう言い切るアオイの表情に、ハルトはそれ以上何も言えなくなってしまった。
風呂から上がり、自室のベッドに横になったハルトは、天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。
肩の傷は、ミニラストの治癒魔法できれいさっぱり消えている。
だが、そこにあったはずの痛みの記憶は、まだ体の奥に残っているような気がした。
(浅野の……先代、か)
ラストが最後まで明かさなかった「もう一人」の存在。
そして、契約に伴う漠然とした条件。
「必要な方向に力を使うこと」――その意味を、ハルトはまだ理解できていない。
枕元のスマホを取り、先ほどのグループトークをもう一度開いてみる。
(アサとヒマリ先輩には、なんて説明しよう)
正直に話せば、二人は間違いなく巻き込まれる。
かといって、隠し通せる自信もない。
何より、隠し事をすることに、ハルトはあまり慣れていなかった。
スマホの画面を点けると、時刻は二十三時を回っていた。
アサからもヒマリからも、特に連絡は来ていない。ごく普通の、いつも通りの夜だ。
その「普通」が、今はやけに貴重なものに感じられた。
(明日、二人に話そう)
そう決めて、ハルトはスマホを閉じ、目を閉じた。
だが、なかなか寝付けない。
瞼の裏に浮かぶのは、夕日を背にしたミニラストの笑み、そして――一瞬だけ見せた、アオイの強張った指先だった。
ハルトのスマホが、小刻みな振動と共に軽快な音楽を流し始めたのは、ちょうどその時だった。
「アサ?」
着信欄には、ハルトの一番の相棒の名前が記されていた。




