49話 トワイライト
藤沢駅でJR線から小田急江ノ島線へと乗り換え、10分少々。
終点の片瀬江ノ島駅に降り立つと、竜宮城を模したという鮮やかな朱塗りの駅舎が二人を出迎えた。
潮の香りが、駅のホームにまで濃く漂ってきている。
「目的地は、江ノ島だったのですね」
駅舎を見上げながら、アオイが静かに言った。
その声には、ほんの少しだけ驚きと、隠しきれない弾んだ響きが混ざっている。
「うん! 天気もいいし、最高の海日よりだからね。じゃあ、ちょっと歩こうか」
ハルトはアオイの歩幅に合わせながら、ゆっくりと歩き出した。
午前中は、本土と江ノ島を繋ぐ長い『弁天橋』を渡り、島内をのんびりと散策することにした。
夏の強い日差しが照りつけているが、海から吹き抜ける風が心地よい。
橋の下では、サーファーたちが波を待ち、上空では海鳥が弧を描いて飛んでいる。
島に上陸し、青銅の鳥居をくぐると、そこは両脇に土産物屋や飲食店がひしめき合う賑やかな参道だった。
観光客の波に流されないよう、ハルトはアオイの少し前を歩きながら時折振り返る。
「せっかくだから、何か食べ歩きでもしようか。あ、あの『丸焼きたこせんべい』なんてどう?」
「たこせんべい、ですか?」
行列に並んで手に入れたのは、タコをまるごとプレスして焼いた、顔の大きさほどもある薄焼きのせんべいだ。
ハルトから半分受け取ったアオイは、少し戸惑いながらも、端の方を小さくかじった。
パリッ、と香ばしい音が鳴る。
「……美味しい、です!」
微かに目を細め、サクサクと食べ進めるアオイ。
普段の家事ばかりしている彼女には、こうした観光地での食べ歩き自体が新鮮なのだろう。
参道を抜けると、江島神社へと続く長い石段が立ちはだかっていた。
「ここから上までは結構な段数の階段なんだけど、『エスカー』っていう有料エスカレーターもあるんだ。アオイ、どうする? 疲れるなら乗ってもいいけど」
「私は歩きで構いません。……ハルト君は、その、お疲れであればエスカレーターでも」
「いやいや、僕も歩くよ! これくらい平気だって」
見栄を張って階段を登り始めたハルトだったが、中腹の辺りで早くも息が上がり始めてしまった。
対するアオイは、日頃から広い秋津家の掃除で鍛えられているのか、涼しい顔で登っていく。
「ハルト君、息が上がっていますが……大丈夫ですか?」
「う、うん……ちょっと、運動不足が……たたってるね……」
情けない姿をさらしつつも、ようやく頂上の高台へと辿り着いた。
そこにあるのは、江ノ島のシンボルでもある展望灯台『シーキャンドル』だ。
エレベーターで展望フロアへ昇ると、360度のパノラマが二人を出迎えた。
太陽の光を反射してきらきらと輝く広大な相模湾。遠くには富士山のシルエットや、伊豆半島の山々まで見渡せる絶景だ。
アオイはガラス張りの窓にそっと手をつき、見渡す限りの青い海と空を前にして、じっと外を見つめていた。
心地よさそうに海風を浴びるその横顔は、普段の無表情な使用人のそれとは違う。
「……すごい、こんなに広い景色を見たのは、久しぶりかもしれません」
「そっか。……アオイを誘って、本当によかったよ」
ハルトの言葉に、アオイはゆっくりと振り返り、ほんのわずかだが、確かに口角を上げて微笑んだ。
「……ありがとうございます、ハルト君」
その柔らかい笑顔に、ハルトは思わず見とれてしまった。
昼食に名物の『しらす丼』を堪能した後、午後は本土側に戻り、『新江ノ島水族館』へと足を運んだ。
ひんやりと涼しく、薄暗い館内。
巨大な『相模湾大水槽』では、イワシの群れが銀色の竜巻のように優雅に泳ぎ回っている。
「……みんな、同じ方向を向いて泳いでいるのですね」
「うん。ああやって群れを作ることで、大きな魚から身を守ってるんだってさ」
ハルトの解説を聞きながら、アオイは水槽のガラス越しに魚たちの生態を真剣に観察していた。
やがて二人は、『クラゲファンタジーホール』という薄暗い展示室へと入った。
照明が落とされた空間に、大小様々なクラゲが青や紫のライトアップに照らされて、ふわりふわりと幻想的に漂っている。
アオイは、ひとつの水槽の前に立ち止まった。
「……不思議な生き物です。脳も心臓もないと聞いたことがあります。ただ波に流されるまま、漂っているだけなのに……こんなにも綺麗なんですね」
ぽつりと漏れたその呟きは、どこか、他人の思惑のままに使用人として生きる自分自身を重ねているようにも聞こえた。
「……でも、クラゲにはクラゲなりの生きる意志があると思うよ。流されてるように見えて、ちゃんと自分の力で泳いでる種類もいるしね」
「自分の力で……」
アオイは漂うクラゲを見つめたまま、小さく頷いた。
その後、イルカショーのスタジアムへ移動した。
陽気な音楽に合わせて、イルカたちがダイナミックなスピンジャンプを次々と披露する。
ザバーン!と大きな水しぶきが上がり、観客席から大きな歓声が沸き起こった。
「あっ……!」
高く宙を舞うイルカの姿に、アオイが思わず小さな声を上げ、身を乗り出した。
普段の無機質な仮面が完全に外れ、年相応の少女のように目を輝かせている。
その純粋な反応を見て、ハルトは「連れてきて本当に良かった」と心から思った。
夕方。
二人は江ノ島駅から、江ノ島電鉄――通称『江ノ電』に乗り込んだ。
レトロな緑とクリーム色の車両が、民家の軒先を縫うようにしてコトコトと走っていく。
「本当に、家との距離が近いです……窓から手が届きそう」
「これが江ノ電の醍醐味だよ。でも、もっとすごい景色がこの先にあるんだ」
やがて電車が腰越駅を過ぎると、急に視界がパッと開けた。
「おおーっ」という観光客たちの歓声に混じって、アオイもハッと息を呑む。
窓の外には、夕暮れ時の広大な海が一面に広がっていたのだ。
オレンジ色に染まる相模湾と、遠くに見える江ノ島のシルエット。
アオイは窓ガラスに顔を近づけ、その景色に釘付けになっていた。
電車は『鎌倉高校前』駅に到着し、二人は途中下車をした。
有名な踏切のすぐそばから階段を下り、波打ち際の砂浜へと向かう。
空はすっかり茜色に染まり、沈みゆく夕日が海面を美しく照らし出している。
寄せては返す波の音だけが、静かに響いていた。
「そろそろ、駅に……」
海風に髪を揺らしながらハルトの方を向いて言いかけたアオイの言葉が、不意に途切れた。
「アオイ?」
彼女の視線は、ハルトではなく、ハルトの背後――夕日に照らされた砂浜の入り口付近へと釘付けになっていた。
ハルトが振り返ると、そこには一人の青年が佇んでいた。
服装からして観光客のように見える、一見すると普通の青年だ。
だが、彼は異様なほどの眼力で、じっとこちらを見つめている。
いや、異常なのはそれだけではない。
西日が長く伸ばしている青年の『影』。
それが、ただの人影にしては、あまりにも歪だった。
(なんだ……あれ……!?)
ハルトが息を呑んだ次の瞬間。
青年の影は、まるで意思を持つスライムのように輪郭を崩し、黒い染みとなって砂浜を這い、瞬く間にハルトたちの足元まで迫ってきた。
「アオイ、下がって!」
考えるより先に、身体が動いた。
ハルトはアオイの華奢な腕を強く掴むと、自分の背中に庇うようにして力任せに引き寄せる。
その直後、這い寄ってきた影の一部が鋭い刃のような形を作り、鞭のように跳ね上がってハルトの肩口を掠めた。
「ぐ……ッ!」
「ハルト君……!」
焼けるような鋭い痛みが走り、ハルトの口から苦悶の声が漏れる。
私服のシャツの袖が裂け、どす黒い赤が滲み出した。
だが、そんな痛みよりも先に、ハルトの頭を支配していたのは一つの強烈な感情だけだった。
(アオイだけは、絶対に守る……!)
銚子での無力だった自分とは違う。
あの時、アサとヒマリに守られるだけだった自分じゃない。
ハルトは痛みを堪えて歯を食いしばり、アオイを背中に隠したまま、異形の影を操る青年を睨みつけた。
「ハルト様……血が……!」
アオイの声が、今まで聞いたことがないほど激しく動揺し、震えていた。
彼女はハルトの背中をギュッと強く握りしめている。
青年の足元で、影がぬるりと再び形を変える。
今度はより大きく、鋭く、確実にハルトたちを仕留めるための二撃目を放とうと、鎌首をもたげた。
(来る――!)
ハルトが最悪の事態を覚悟して身を固くした、その時。
「――あーあー、往生際が悪いわね。もう十分でしょ」
殺伐とした空気をぶち壊すような、場違いなほど軽くて呆れたような声が、すぐ上の国道沿いの歩道から響いた。
ハルトが顔を上げると、いつの間にか、夕日を背にして三つの人影が並んで立っていた。
一人は、細身のスーツをスタイリッシュに着崩し、慇懃な笑みを浮かべる銀髪の男。
もう一人は、ボロボロの黒いコートを羽織り、忌々しげに舌打ちをする、片角の折れた男。
そして二人の真ん中、一番前に立っていたのは――黒を基調としたフリルたっぷりのゴスロリドレスに身を包んだ、小学生くらいの幼い少女だった。
「……マモン、エンヴィー……!?」
思いがけない悪魔たちの登場に、ハルトは目を丸くした。
だが、それ以上にハルトの視線を引きつけて離さないのは、真ん中の幼い少女の姿だ。
年齢も背丈も違う。
服装も違う。
だが、その顔立ちと、気高く艶やかな雰囲気に、ハルトは見覚えがあった。
「それに……えっ?」
驚愕で声が裏返るハルトを見下ろし、ゴスロリドレスの少女は、大人びた妖艶な笑みをふわりと浮かべた。
「はじめましてかしら? 秋津ハルトくん。私は、ラスト。……よろしくね」




