48話 湘南新宿ライン
夜20時、ハルトは焼肉から帰ってきて家の玄関を開けると。
「おかえりなさいませ、ハルト様」
いつも通り、アオイが待っていた。
「ただいま、アオイ」
ハルトは疲労の色を悟られないよう、できるだけ明るい笑顔を作って応えた。
「お風呂とお布団のご用意はできております。本日は、朝早いお出かけでしたので、ごゆっくりお休みください」
淡々と、抑揚のない声で告げるアオイ。
しかし、ハルトはそのいつも通りの無機質な表情の裏に、ほんのわずかながら「寂しさ」のようなものが張り付いているのを感じ取った。
無理もない。ハルトたちが外で命がけの戦いや賑やかな撮影をしている間、彼女はずっとこの家で一人、家事をしながらハルトの帰りを待ち続けているのだ。
年齢はハルトと変わらない大学生だというのに。
靴を脱ぎかけたハルトは、ふと動きを止めた。
「あ、あのさ、アオイ」
「なんでしょうか?」
不思議そうに小首を傾げるアオイに、ハルトは少しだけ躊躇いながらも口を開いた。
「今週の土日空いてる?」
「……今週ですか? ちょうど大学の期末テストが一段落ついてるので、空いてはいます」
「じゃあさ、一緒に旅行に行かない?」
「え?」
アオイの目が、わずかに見開かれた。
「旅行だよ、旅行。とは言っても、日帰りになってしまうんだけど……」
「……それは、ハルト様のご友人とご一緒でしょうか?」
ご友人、つまりアサやヒマリのことだろう。
アオイは自分がその輪の中に混ざることを遠慮しているようだった。
「いいや。2人で行こう。計画は僕が立てておくから」
「そんな……申し訳ないです。私はただの使用人ですし、ハルト様の貴重なお休みを奪うわけには……」
アオイは視線を落とし、遠慮がちに後ずさろうとする。
「そ、そっか……。ああ、その、……別に嫌ならいいんだ。ただ……なんか、アオイと旅行に行けたら楽しいのかなって……ふとね」
沈黙が玄関に降りた。
アオイは俯いたまま、ギュッと自分のエプロンの裾を握りしめていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……行きましょう」
「え?」
「旅行、行きましょう。楽しみにして、いいですか?」
その瞳には、普段の無感情な使用人としての顔ではなく、年相応の少女らしい微かな期待が揺れていた。
「もちろん!」
ハルトは満面の笑みで頷いた。
蓄積していた疲労が、不思議とスッと軽くなるのを感じた。
そして迎えた週末の朝7時。
快晴の空の下、2人は揃って秋津家を出た。
まだ人通りの少ない静かな住宅街を歩きながら、ハルトの視線はどうしても隣を歩くアオイへと向かってしまう。
彼女の肩には、一泊旅行にでも行けそうな小さなボストンバッグが掛けられていた。
そして何よりハルトの目を引いたのは、彼女の服装だった。
家での見慣れたメイド服ではなく、清潔感のある白いブラウスに、ふわりとしたベージュのロングスカートという、控えめだが品のある私服姿だ。
髪も綺麗に整えられており、いつもとは違う清楚な雰囲気に、ハルトは思わず二度見、三度見を繰り返してしまった。
「……何か、変ですか?」
不自然な視線に気づいたアオイが、わずかに眉を寄せて尋ねてきた。
「い、いや! 全然変じゃない。むしろ、その、似合ってる……と思う」
しどろもどろに答えると、アオイは一瞬だけ目を丸くし、それからすぐにいつもの無表情に戻った。
だが心なしか、彼女の歩調がほんの少しだけ弾んで見えるのは、気のせいではないはずだった。
ハルトとアオイは、通勤客や行楽客でごった返す新宿駅のJR線ホームへとやってきた。
乗車したのは、新宿駅8時19分発、湘南新宿ラインの快速・国府津行きだ。
銀色の車体にオレンジと緑の帯を巻いた長編成の通勤電車。遥か遠く、群馬県の高崎から2時間以上かけてやってきた列車である。
2人は進行方向に向かって座るクロスシートの席に並んで腰を下ろした。
電車は定刻通りに新宿駅を出発すると、渋谷、恵比寿、大崎、武蔵小杉、横浜の順に、都会のビル群を縫うようにして快調に飛ばしていく。
「……交通費だけは教えてもらいましたけど、行き先はどこなんですか?」
車窓の景色を珍しそうに眺めていたアオイが、ふとハルトに向かって尋ねた。
「内緒。とりあえずこの電車で横浜の方まで行くよ」
ハルトがいたずらっぽく笑うと、アオイは小さく息を吐いた。
列車は、大崎駅を出てすぐに山手線と別れ、大きなカーブを描きながら、横須賀線の線路と合流し、そのまま西大井駅を通過した。
(お、西大井通過。やっぱり湘南新宿ラインの『快速』はこうじゃなきゃな)
西大井駅は、同じ湘南新宿ラインでも、宇都宮線と横須賀線を結ぶ系統の電車は停車するのだが、今乗車している高崎線と東海道線を結ぶ系統の『快速』や『特別快速』は容赦なく通過してしまうという、少し不遇で面白い駅なのである。
ハルトはそんな鉄道オタク的な小ネタを心の中で反芻しながら、軽快なジョイント音を楽しんでいた。
電車は最高時速120キロで休日の朝の横須賀線の線路を快調に飛ばし、やがて広大な多摩川の鉄橋を渡って神奈川県へと突入した。
「……お出かけ日和ですね」
「うん。少し心配してたけど、晴れてよかった」
「ハルト君は、いつも電車でお出かけしてるのですか?」
『ハルト君』。
今更だが、家の外で「ハルト様」などと呼ばれれば、周囲から奇異の目で見られるし、なんなら真っ昼間から職務質問に遭いかねない。
そのため、外出時だけは「様」呼びをやめてもらうよう事前にお願いしていたのだ。
少しぎこちないながらも、アオイは「君」呼びに落ち着いたようだった。
「うん。電車に乗っていろんな景色を見に行くのは楽しいからね」
アオイは小さく頷き、再び流れる車窓へと視線を戻した。その横顔は、家で見せる無機質なものよりもずっと柔らかく見えた。
やがて電車は、巨大なターミナルである横浜駅に滑り込んだ。大量の乗客が入れ替わる。
「降りないのですか?」
「うん。もう少し先までこの電車に乗ろう」
横浜を出発した列車は、東海道線と並走しながら、保土ヶ谷、東戸塚の駅を高速で通過し、戸塚駅に停車。
さらに次の大船駅では、後続からやってきた新宿発の特急『踊り子』に道を譲るため、数分間の通過待ちを行ってから再び走り出した。
夏の眩しい日差しが、車内を明るく照らしている。
大船を過ぎると、車窓にはのどかな風景が混ざり始め、潮の香りが微かに漂ってくるような気がした。
「じゃあ、降りるよ」
ハルトがアオイに声をかけたのは、湘南の玄関口――藤沢駅だった。




