46話 特訓の成果
――時間は少し遡る。銚子へ向かう、数日前のことだった。
地下訓練施設特有の、ひんやりとした空気。
蛍光灯に照らされたコンクリートの壁と、床に描かれた幾何学模様の魔法陣。
ハルトはその中央に立ち、右手首に嵌めた腕時計を、じっと見つめていた。
「今日から、いよいよその時計を使った実戦演習に入ります」
ヒマリは訓練着姿で、いつもより幾分か真剣な顔つきをしていた。
「……緊張してるみたいですね」
「そりゃあね。おじさんの形見でもあるし、それに……本当に僕なんかが、時間を操る魔法なんて使えるようになるのかなって」
ハルトは苦笑しながら、腕時計の硬い感触を指先で確かめた。
「大丈夫です。焦る必要はありません。この二週間、あなたは着実に魔法のイメージを掴んできています。石を浮かせることと、時間に干渉することは、根本の原理は同じです」
ヒマリは黒板代わりの小さなホワイトボードに、簡単な図を描いた。
「魔法は、あなたが明確にイメージできたものにしか発動しません。石を『最初から浮いているもの』と捉えたように、今度は、この時計そのものを『時の流れを、ほんの少しだけ捻じ曲げる装置』としてイメージしてください」
「時の流れを、捻じ曲げる……」
「くれぐれも、無理はしないように。時間に関する魔法は、消費する魔力が桁違いです。もし目眩や吐き気を感じたら、すぐに中断してください」
ヒマリの声には、いつもの落ち着きの中に、隠しきれない心配の色が滲んでいた。
「わかりました。……やってみます」
ハルトは大きく息を吸い、目を閉じた。
脳裏に思い描くのは、駅のホームで、規則正しく時を刻み続ける発車標。定刻通りに来て、定刻通りに去っていく電車。狂うことのない、正確なダイヤグラム。
その「正確さ」こそが、ハルトにとって最も馴染み深い、時間の概念だった。
(時間は、いつだって決まったレールの上を進んでいく。でも、もし――ほんの少しだけ、そのレールを、僕がずらせるとしたら)
腕時計の文字盤が、かすかに、青白い光を放ち始めた。
「……! 光ってる!」
「集中を切らさないでください。無理に大きく動かそうとせず、ほんの一瞬で構いません」
ハルトは目を開け、傍らに置かれたストップウォッチを見据えた。秒針が時を刻んでいる。
(止まれ……いや、違う。ずらすんだ。ほんの、少しだけ)
祈るように念じた、その瞬間。
パチン、と何かが弾けるような感触が、右手首を伝った。
秒針の動きが、目に見えて、コンマ数秒だけ「遅れた」。
「……止まった……いや、遅れた? 今の……」
ハルトは呆然と、自分の手首を見つめた。
「素晴らしいです、ハルト君」
ヒマリが、珍しく興奮した様子で駆け寄ってくる。
「対象の時間を、ごくわずかに遅延させる。……理論上、これは『時間停止』よりもずっと繊細で、扱いが難しい魔法です。ですが、それだけに、応用の幅も広い」
「え、そうなの?」
「はい。止めるのではなく、遅らせる。……たとえば、飛んでくる攻撃を、ほんの一瞬だけ遅らせることができれば」
ヒマリの言葉に、ハルトはハッとした。
「それだけで、避けられないはずの一撃を、避けられるようになるかもしれない、ってことか」
「その通りです。……ですが」
ヒマリの表情が、すっと引き締まる。
「まだ、あなたのその力は、あまりに不安定です。今のように、静止した対象になら発動できても、実戦中、動き回る相手に対して、狙った通りに発動できる保証はどこにもありません」
「……うん。わかってる」
ハルトは、自分の手首に嵌まった時計を、もう一度見つめた。
まだ全然、頼りない力だ。狙って出せるかどうかもわからないし、下手をすれば、自分にも味方にも、何の役にも立たないまま終わるかもしれない。
それでも。
(何もできないよりは、ずっといい)
「先輩。……もう一回、やらせてください」
ハルトは、真っ直ぐにヒマリを見つめた。
その瞳に浮かぶ強い光に、ヒマリは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、優しく目を細めた。
「ええ。付き合いますよ、いつまでも」
――老婆の姿をした「何か」が、血に飢えた目でこちらを見据え、大きく口を開けた。
鋭い牙の並んだ顎が、まっすぐハルトの喉元めがけて迫る。
(――ダメだ、間に合わない!)
理屈より先に、身体が動いた。
いや、正確には、身体ではない。
右手首に嵌まった腕時計が、あの日と同じ、青白い光を放っていた。
「――ッ!」
パチン、と何かが弾ける感触。
老婆の「何か」の動きが、コンマ数秒。ほんのわずかに、遅れた。
その一瞬の隙が、ハルトにとっては、永遠にも等しい猶予だった。
(今だ……!)
コンマ数秒。老婆の「何か」の動きが、確かに遅れた。
その一瞬に賭けて、ハルトは無我夢中で身体をひねった。牙が空を切り、代わりにハルトの肩口を浅く裂く。
「痛……ッ!」
「ハルト君!」
アサの叫びと同時、彼女の展開した膜が、老婆の「何か」の追撃を弾いた。
「今の……時計、光ってたわよね!?」
「うん……多分、成功、した……」
肩の痛みに顔を歪めながらも、ハルトは荒く息をつく。狙って出せる保証などなかった力が、ぎりぎりのところで応えてくれた。それだけで、震えるほどの安堵があった。
「アサ、防御を!」
アサの声に呼応するように、淡い光の膜が、老婆の「何か」の周囲をふわりと包み込む。
「これは……!?」
「捕まえるつもりはなかったけど……このまま、確率をいじらせてもらうわ。あんたが私達に"届く"確率、ゼロに近づけてあげる」
膜の中で、老婆の「何か」の動きが、目に見えて鈍くなっていく。まるで、粘度の高い水の中でもがいているかのように。
その隙を、ヒマリが見逃すはずもなかった。
一閃。
峰打ちにも似た、しかし確かに芯を捉えた一撃が、老婆の「何か」の意識を刈り取る。
膨れ上がっていた黒い輪郭が、急速に萎み、糸の切れた人形のようにホームへと崩れ落ちた。




