44話 不審者
「本当に、ここまでで大丈夫ですか?」
犬吠埼国立病院の職員が運転する車が銚子駅前のロータリーに滑り込むと、助手席のヒマリが窓越しに深く頭を下げた。
「ええ。ここから先は、私たちの仕事ですから」
運転手は硬い表情のまま、それだけ言って軽く一礼した。車が病院の方向へと走り去っていくのを見送りながら、ハルトはようやく肩の力を抜く。
「さて……」
ヒマリはトランクを片手に提げたまま、駅の方をちらりと見た。時計の針は11時を少し回ったところだった。
「電車は12時7分発です。少し早いですが、ここで腹ごしらえをしておきましょう。……この先、いつ食事に困る状況になるかわかりませんから」
「わかったわ。銚子といえば、海鮮よね」
努めて明るい声を出すアサに続いて、三人は駅前の食堂へと向かった。
――それから小一時間後。
腹を満たし、頭の中に今後の段取りを叩き込んだ三人は、ホームに滑り込んできた4両編成の普通列車に乗り込んだ。
209系。
かつて青い帯で京浜東北線で活躍していたこの電車は、後継車両が登場後、千葉県内のローカル線の運用に転属し黄色と深い青の帯を巻いて第二の人生を送っている車両である。
地方路線にしては長めの列車の車内に入ると、お昼時ということもあってか、人影はまばらだった。
地元の高齢者が数人、部活帰りらしい学生が数人。
誰もが皆、ごくありふれた午後のひとときを過ごしている。
「本当にこの電車で、東京の本部まで行けるのかしら」
アサがドア付近の座席に腰を下ろしながら、半信半疑といった様子で呟く。
「時間はかかりますが、ちゃんと繋がっていますよ」
元々京浜東北線で活躍していたこともあって、都会の電車と同じく、車内はロングシートで構成されており、三人は並んで座席に腰かけた。
ヒマリの膝上には、トランクがしっかりと抱えられている。
「さっきしおさいで通った時と、同じようで違う景色なんだな……」
ハルトは窓の外を流れる田園風景を眺めながら呟いた。
行きの『しおさい』は真っ直ぐ西へ向かう総武本線ルートだったのに対し、帰りのこの列車は利根川沿いを北上するように進む成田線ルートである。
見える風景が違うのは当然なのだが、それ以上に、ハルトの心境の変化が大きいのだろう。
行きに見た鮮やかな緑の絨毯は、今は心なしかひどくくすんで見えた。
列車は佐原駅に停車し、何人かの乗客が入れ替わった。
ホームには、江戸の面影を残す町並みへの案内看板が見える。
「そっか……。日中の佐原観光は、大抵の人が高速バスを使うんだよね……」
ハルトは空席が多い4両編成の車内を見渡して、寂しそうにつぶやいた。
久住、滑河と停車を重ねていく中で、アサがふと眉をひそめた。
「……ねえ、さっきから、なんとなく」
「はい。私も感じています」
ヒマリが短く応じる。二人の間に、目に見えない緊張が走った。
「な、何か気づいたの?」
ハルトが小声で尋ねると、アサは前を見つめたまま、唇の端だけをわずかに動かした。
「はっきりとは言えないけど……なんだか、視線みたいなものを、ずっと感じるのよ」
「魔力の質までは掴めませんが、明らかに『見られている』感覚があります。……ですが、まだ大きな動きはありません。恐らく、こちらの戦力を測っているだけかと」
13時25分。
列車は定刻通り、成田駅に到着した。
構内は多くの乗客で賑わっている。
京成線、他のJR路線への乗換客が入り混じり、絶え間ない人の流れがホームを埋めているのは印象的だ。
その雑踏の中を歩きながら、アサが不意にハルトの袖を軽く引いた。
「……ハルト君」
「な、何?」
「振り返らないで。……付けられてるわ」
アサの声は、驚くほど静かだった。だがその静けさこそが、事態の深刻さを物語っていた。
ヒマリは前を見つめたまま、小さく頷く。
「ええ。少なくとも、二体。……このまま、我孫子支線に乗ります」
三人は歩みを緩めることなく、次のホームへと向かった。
乗り換え列車は成田駅6番線から、13時44分発、普通列車の我孫子行きである。
成田線我孫子支線は、常磐快速線と直通運転を行っており、我孫子から先に直通する電車に関しては、E231系10両編成が使用される。
対して、我孫子支線内のみ運転される電車の多くは、同じ大型のロングシート通勤電車であるE231系でも、増結用の編成である5両編成の電車が使用されている。
お昼過ぎに成田駅を出発するこの電車も、例にもれず短い5両編成での運転だった。
それだけ日中の、この路線の需要が少ないということかもしれない。
やがてドアが閉まり、電車は成田駅を出発した。
田園風景と雑木林に挟まれた単線を、電車は思いのほか力強い速度で駆け抜けていく。
下総松崎、安食と停車を重ねるたび、ハルトは何気ない顔でスマホをいじる振りをしながら、乗り降りする客に全神経を集中させていた。
(……一人)
安食で乗り込んできた、うつむき加減のスーツの男。目が合わなかったのに、なぜか居心地が悪い。
(……また一人)
小林で乗り込んできた、大荷物を抱えた老婆。だがその足取りは、老婆にしては妙にしっかりしていた。
「増えてますね」
ヒマリが唇をほとんど動かさずに囁いた。
「今、車内に四体。……このまま我孫子まで行けば、向こうの人数はさらに増えるでしょう」
「私達と戦う気、満々ってわけね」
アサが皮肉げに笑ったが、その拳は膝の上できつく握られていた。
三人は、まるで何かを示し合わせるかのように、顔を見合わせて頷きあった。
電車が次の駅のホームに滑り込むと、ヒマリを先頭に、ハルトとアサが続いて降り立った。
そして、その後を追うように、車内に潜んでいた「乗客」たちも、次々とドアから降りてくる。
スーツの男。大荷物の老婆。学生服を着た少年。制服姿のOL。
四つの人影は、電車が走り去った後のホームで、ゆっくりとハルトたちを取り囲むように立ち止まった。
もう、誰も「ただの乗客」の顔をしていなかった。
皮膚の下で黒い虫の大群が蠢くように、彼らの人間の輪郭が、じわりじわりと黒く変色し、異形の姿へと滲んでいく。
「……本性、現したわね」
アサが低く呟く。
「ハルト君、下がっていてください」
ヒマリはトランクを胸に強く抱きしめながら、静かに一歩前へ出た。
「リダクション」
彼女が短く呟くと、腰のホルダーから小さなアクセサリーが、瞬く間に一振りの長剣へと姿を変える。
「アンカー、フィックス」
続けてヒマリの桜色の唇から紡がれた詠唱と共に、ホームの空間が、ぐにゃりと大きく歪んだ。
まるで水面に巨大な石を投げ入れたときのように、景色全体が波打ち――そして、完全に静止する。
風に揺れていた雑草も、遠くに見えていた車の動きも、すべてが薄いガラス膜の向こう側に閉じ込められたように色を失い、モノクロームの世界へと変貌した。
一般人を巻き込まず、かつ被害を隠蔽するための強力な隔離結界だ。
「これでもう、誰にも見られません。……存分にやりましょう」
ヒマリは静かにメガネを外し、ポケットにしまった。
彼女の理知的な瞳は静かに、しかし確かなエクソシストとしての凄絶な戦意を灯している。
それに応じるように、完全に異形と化した四体の「元・人間」たちが、一斉に鼓膜を裂くような咆哮を上げる。
トランクを巡る長かった旅の終着点は、血と魔力が交錯する死闘という形で、木漏れ日がさす静かな駅に訪れようとしていた。




