41.5話
エンヴィーの怒鳴り声が、世界の外れに漂う静寂を切り裂いた。
「おい、マモン! どういうことだよ!?」
「何がですか?」
対するマモンは、涼しい顔でスマホの画面をスワイプしている。
指先が滑らかに動くたび、画面には無情にも横ばいの折れ線グラフが映し出されていた。
魔界。
常に赤黒い月が空に張り付き、地表からは絶えず瘴気が立ち上るこの世界の片隅。
石畳の道の先、蔦が絡みつき、長らく手入れもされていない廃教会のような建物の前で、マモンは苛立たしげに舌打ちする悪友を横目に見ていた。
「全然動画が伸びないじゃねーか! 何が、強欲の感情も嫉妬の感情も吸い放題だ! 嫉妬の感情を食べる前に、俺が嫉妬で燃え尽きるわ!」
エンヴィーは自らの角をガリガリと掻きむしった。
片方が折れたままのその角からは、苛立ちに応じてパラパラと黒い粉が零れ落ちる。
彼の中で渦巻く感情は、まさに彼自身が司る「嫉妬」そのものだった。
伸びる他の人間界YouTuberたちのサムネイルが、彼の脳裏にちらついては消えていく。
「はぁ。いいですか、エンヴィーさん。人間界において、Youtubeを伸ばすのはかなり時間がかかるのです。幸い、ワタクシは、その持ち前の知識を活かして、活動からわずか一か月で、登録者数2万人まで伸ばすことに成功しましたが……そこから先は、ワタクシも苦戦しているのです……」
マモンはスマホをポケットにしまうと、やれやれといった様子で肩をすくめた。
その仕草には、これまで何度も同じやり取りを繰り返してきた者特有の、諦めにも似た余裕があった。
そしてその言葉の端々には、珍しくマモンにしては素直な弱音が混じっていた。
普段は自信満々な彼にとって、伸び悩みという現実は、意外にも堪えるものらしい。
「じゃあどうすんだよ! 怒りのあまり、人間界で燃やすぞ!」
エンヴィーの体から、赤黒いオーラがゆらりと揺らめいた。
それに呼応するように、周囲の空気がわずかに歪み、地面に転がっていた小石がカタカタと震え出す。
本気か冗談か判然としないその物言いに、しかしマモンは眉一つ動かさなかった。
「エンヴィーさんのその小物感が、個人的には好きですよ」
「んだとゴラ!?」
エンヴィーが牙を剥き出しにして凄む。
だがマモンはどこ吹く風といった様子で、顎に手を当てて何やら思案し始めた。
「……はぁ。わかりました。助っ人を呼びに行きましょう」
マモンはそう言って、ポケットから一枚の紙きれを取り出した。
「なんだ、それ、マモン」
エンヴィーが眉をひそめて紙切れを覗き込む。
「クソババァからの餞別です」
「けっ、そういやあの悪魔、俺には挨拶なしで行っちまったんだっけな。薄情なやつだ」
エンヴィーは苦々しげに吐き捨てた。
その口調とは裏腹に、視線はどこか遠くを見つめているようで、声色にはわずかな寂しさが滲んでいた。
「それをあなたが言いますか?」
マモンは呆れたように苦笑してから、ふと表情を引き締めた。
「……そういえば、親玉とはもう会わなくていいのですか?」
「あ? ああ、鉄オタのガキに返り討ちにあってから、破門にされたよ。もう二度と俺にその汚ねぇ面を見せんなって」
エンヴィーは吐き捨てるように言うと、片方だけ残った角を撫でた。
「よかったじゃないですか」
マモンの声色が、わずかに真剣みを帯びた。
普段の飄々とした態度が鳴りを潜め、瞳の奥に静かな懸念の色が浮かぶ。
「あの集団、実はかなりきな臭い集団で、ワタクシたちもかなり問題視してたんですよ。ワタクシもエンヴィーさんを心配してました」
「よかねぇよ! あそこからどれだけ食い扶持をもらっていたと思ってんだ!」
「はいはい」
マモンは軽くいなすと、手の中の紙切れに再び視線を落とした。
指先でその表面をなぞりながら、そこに刻まれた文字を読み解こうとする。
「……で、餞別の方はなんて書いてあるんだ?」
「……これは、ラストのねぐらの住所ですね」
マモンの声には、わずかな驚きが滲んでいた。
「クソババァの住所だぁ⁉ そこに行けってことか?」
エンヴィーが目を見開き、紙切れを覗き込もうと身を乗り出す。
「おそらくそういうことでしょう。とにかく、行ってみましょうか。本当に助っ人がいるのかどうか、確認しに行きましょう」
マモンはそう言うと、紙切れを丁寧に折りたたみ、再びポケットへと仕舞い込んだ。
旧ラストのねぐらにて。
赤黒い月明かりに照らされたそこは、蔦の絡まる古びた洋館だった。
かつては相応の風格を備えていたであろうその建物も、今では窓ガラスの半分が割れ、屋根の一部が崩れ落ちている。
長らく人の――いや、悪魔の気配が絶えていたことを示すように、あたりには静寂だけが重く垂れ込めていた。
風もないのに、庭に生い茂った雑草がざわざわと揺れる。まるで建物そのものが、二人の来訪を静かに見つめているかのようだった。
「あ? こんなところに、結界なんてあったか? しかも、俺に解除できねぇぞ」
エンヴィーが苛立たしげに空間を殴りつける。拳が見えない壁に当たり、ゴンッという鈍い音を立てるが、結界は微動だにしなかった。
彼の顔には、驚きよりもむしろ苛立ちの方が色濃く浮かんでいる。
「いえ、ありませんでしたね。ワタクシでもギリギリできるレベルです」
マモンは目を細め、指先で宙をなぞるようにして結界の輪郭を探った。
その表情から、先ほどまでの余裕は消え、代わりに真剣な集中が浮かんでいる。
「かなり強い結界……。とりあえず解除してみます」
マモンが静かに指先へ魔力を集中させると、彼の周囲の空気がぴりりと張り詰めた。
次の瞬間、目の前の空間に幾筋もの亀裂が走り、ガラスが砕けるような音とともに、結界は崩れ落ちるように消えていった。
その、まさに直後――
中から、影が飛び出した。
「おっと」
マモンは長年の勘だけでそれを紙一重で躱す。
空気を切り裂く鋭い蹴りの風圧が、彼の頬をかすめて通り過ぎた。
「え? グオッ!?」
マモンはすんでのところで避けられたが、エンヴィーはその一撃をまともに顔面へ食らい、後方へ大きく吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられた衝撃で、辺りに土煙が派手に舞い上がる。
「痛って―なぁ!? 何しやがる⁉」
土煙の中からエンヴィーの怒声が響く。
彼は鼻を押さえながら、よろよろと体を起こした。
「待ちなさい、エンヴィー。あの影は……」
マモンは片手を上げて彼を制した。
その視線は、晴れつつある砂埃の向こうに揺れる人影に釘付けになっている。
声には、緊張と、それでいてどこか懐かしさすら滲むような響きがあった。
砂埃が徐々に晴れていく。
舞い上がった土くれの向こう側、月明かりを背にして、そこから姿を現したのは――
「ふぅ。遅かったじゃない、二人とも。待ちくたびれたわ」
その声は、涼やかでありながら、どこか人を食ったような余裕を纏っていた。
「な、てめぇは!?」
エンヴィーが目を見開いた。鼻血を垂らしたまま、彼はその場に立ち尽くす。
ゴスロリドレスを着たお嬢様のような悪魔は、ドレスの裾をつまみ、優雅にお辞儀をした。
風もないはずのその場で、漆黒のフリルだけがふわりと揺れ、赤黒い月光を受けて妖しく光を反射する。
整った所作の一つ一つに、隠しきれない気品と――そしてかすかな、底知れなさが漂っていた。
「初めまして。ラストよ。……ああでも、あなた達が知ってるラストとは別の存在だから……そうね、ミニラストと呼んでほしいわ」




