41話 窓の外では
アサは、用事があるとのことで、先に帰ってしまった。
残されたハルトとヒマリのテーブルには、少しぬるくなったアイスティーと、静かな時間が流れている。
ヒマリはグラスに入ったアイスティーをストローで静かに吸った。
カラン、と氷が涼しげな音を立てる。
「そういえば、ヒマリ先輩。僕に何か、魔法がかかってませんか?」
ハルトがふと思いついたように尋ねた、その瞬間だった。
「――っ、ゲフッ、ゲフンゲフン!」
常に冷静沈着なヒマリが、ストローを口から離して派手にむせ返った。
「ヒマリ先輩!? 大丈夫ですか!?」
「ええ、大丈夫です。ハルト君」
ヒマリは片手で口元を押さえながら、もう片方の手で「問題ない」と合図するようにひらひらと振った。
そして、少しだけ泳がせた視線をすぐに元に戻し、咳払いをして表情を取り繕う。
「……そうですね……特に何か魔法がかかってるようには見えないですね……気のせいだと思いますよ」
「そうかな……。誰かに会話が筒抜けになっているような気が時々するんだけど……。気の所為ならいっか……?」
ハルトは首を傾げながら、自分の体をペタペタと触って確認している。
「ええ。あまり気にしないほうがいいと思います。第一、ハルト君をストーカーするような人間が、この世の中にいるとは思えません」
「まあ、それもそうか」
「それより、ハルト君。渡しておきたいものがあります」
ヒマリはそう言って、足元に置いていた小さなバッグから小物入れを取り出した。
そして、テーブルの上にコロンと小さな銀色の輪っかを置く。
「……指輪?」
ハルトは不思議そうに小さく呟いた。
「ええ。この指輪は、ディスティニーリングといいます。指輪は一対になっていて、つけている間は、互いの生存を確認することができます。今は青く光っていますが、どちらかが消息を絶つと、指輪が赤く光る仕組みです。私のは、ほら」
ハルトがヒマリの左手の薬指を見ると、確かに銀色の輪っかが光っている。
それを見て、ハルトはドキリと心臓が震えた。
ヒマリが説明しながら指輪に触れると、確かに銀色の表面の奥で、微かに青い光が脈を打つように明滅していた。
「要はワ◯ピースのビブルカードみたいな感じってこと?」
「例えは微妙ですが……概ねその認識で正しいです。相方に危機が訪れている場合は、指輪が黄色に光ります」
なるほど、とハルトは感心して指輪をつまみ上げた。
ひんやりとした金属の感触がするが、ただのアクセサリーではないことは素人目にもわかった。
「でも、なんでそんなものを僕に……? 渡すならアサとかじゃないの?」
ハルトの純粋な質問に、ヒマリは一瞬だけ、本当に一瞬だけフリーズした。
しかし、すぐにいつもの冷ややかなトーンで切り返す。
「そうですね……。ハルト君が頼りないので、この先何かあった時に、助けにいけるようにするためですね」
「失敬な。僕はもう弱くないよ!」
ハルトが少しムキになって抗議すると、ヒマリはスッとメガネのブリッジを押し上げ、冷ややかな視線を向けた。
「果たしてそうでしょうか? 防御魔法も犯人前で、基礎的な攻撃魔法を一つも使えないハルト君が?」
「うっ……! も、もう! それは、黙っててよ!」
痛いところを的確に突かれ、ハルトはぐうの音も出ずに顔を赤くした。
「フフッ。それよりも、次の特訓から例の腕時計を持ってきてください」
ヒマリはからかうように小さく笑うと、すぐに真面目なトーンに戻った。
「例の……って、おじさんからもらったやつ?」
「そうです。少し時期は早いかもしれませんが、ハルト君も作戦に参加する以上、ある程度魔法は使えなければなりません。……そろそろ実戦的な演習も取り入れましょう」
『実戦的な演習』。その言葉の響きに、ハルトは背筋が伸びるのを感じた。
自分が足を踏み入れようとしている世界が、ただの遊びではないことを改めて自覚する。
「……わかりました」
「はい。いい返事です」
ヒマリは満足そうに頷くと、残っていたアイスティーを飲み干した。
窓の外では、夏の始まりを告げる強い日差しが、駅前のロータリーを眩しく照らしていた。
会話が途切れ、ハルトが何気なく窓の外に目をやっていると、ふと沈黙が長引いていることに気がついた。
視線を戻すと、ヒマリは空になったグラスを、随分と長い間、黙って見つめている。 指輪と同じ薬指が、グラスの縁をなぞるように動いていた。
「……先輩?」
「……あ、すみません、なんでしょう」
呼びかけられて我に返ったように、ヒマリは顔を上げた。
いつもの涼しげな微笑みだったが、ハルトには、今の一瞬だけ見えた横顔が、いつもよりほんの少しだけ遠くを見ているように思えた。
「大丈夫ですか……? ぼーっとしていましたけど……」
すると、ヒマリはもう! と言って、口を少し膨らませた。
「私だってぼーっとする時もあります!」
ヒマリはそう言って、空になったグラスをことりとテーブルに置いた。
何を考えていたのか、ハルトには結局わからないままだった。
ただ、彼女がグラスの氷を見つめていたあの横顔だけが、なぜか妙に頭の片隅に残った。
「ハルト君」
ヒマリは、唐突に口を開いた。
「さっきの質問の話をさせてください」
「さっきの質問って……」
「盗聴魔法の話です」
一瞬、何のことかわからず、ハルトは記憶を巻き戻す。
そういえば、確かにそんなことを口にした気がする。
冗談半分、気のせい半分のつもりで。
「ああ、さっきの……」
「あれをハルト君にかけたの、私です」
「ああ、そうなん……え?」
軽く相槌を打ちかけた声が、途中で裏返った。
ヒマリは、視線をテーブルの上の指輪にちらりと落としてから、また顔を上げた。
「最初に、ハルト君にチラシを渡した日のことを覚えていますか?」
「うん。確か、強い魔力を持つ人間だけが反応して書いてある内容が変化するチラシだよね?」
「はい。そのチラシをあなたに渡した時、私はあなたに違和感を持ちました。あなたからは強い魔力の気配がしたのに、チラシが変化しない。そんなことは異界管理局の歴史から見ても、かなり前代未聞なことです。なので、その時からあなたへの調査が始まっていました」
ヒマリの声は、まるで報告書でも読み上げるかのように、淡々としていた。
だが、テーブルの下で、彼女の指先が、指輪をきつく握り込んでいるのに、ハルトは気づいていなかった。
「……うん」
「あの後も、何回か一緒にランチをいただきましたよね? そのうちの一回、あなたにかけさせていただきました」
「……うん」
ハルトは、相槌を打つことしかできなかった。
怒りより先に、戸惑いの方が大きかった。
「最初は、正直あなたのことを信じていなかった。それは事実です。ですが……ハルト君はいい人なんですね。私は調査のためとはいえ、そのような非道をしてしまったっことを後悔しています」
ヒマリは、そこで初めて、まっすぐにハルトの目を見た。
いつもの余裕のある微笑みは、もうどこにもなかった。
「……うん」
「だから、ハルト君は怒っていいんです。私はあなたのプライバシーを侵害してしまったのですから……」
深く頭を下げようとするヒマリを見て、ハルトは片手を軽く振った。
「なるほど……。ヒマリ先輩は、今も僕に盗聴魔法をかけたままなの?」
「いえ。盗聴魔法自体は、あなたに魔法を教えると約束をした日を最後に、一切使用していません。盗聴魔法そのものも、先ほど解除しました」
「じゃあもういいよ。僕はヒマリ先輩を信用してるし、先輩も僕を今は信用してるでしょ?」
あっさりとした返事に、ヒマリは一瞬、言葉に詰まったように瞬きをした。
「ええ、信用しています」
「よし、じゃあこの話はおしまい。あ、そうだ、追加でケーキ頼もうよ。チーズケーキもう一個食べたくなったからさ」
あまりに軽い切り替えに、ヒマリは呆気に取られたように、しばらく口を半開きにしていた。
やがて、堪えきれないというように、小さく吹き出す。
「もう。ハルト君もアサに似て食いしん坊になってきたんですね」
「そんなことないよ。僕だって甘いものを食べたい日があるの!」
ヒマリは、まだ少し肩の力が抜けきらないまま、それでも口元には確かな笑みを浮かべて、店員を呼ぶボタンに手を伸ばした。
窓の外では、夏の始まりを告げる強い日差しが、変わらず駅前のロータリーを眩しく照らしていた。




