4話 なあ、少し黙ってくれないか?
昼食を食べ終わり、教室に戻ってきたハルト。
その道中で、静かに、それでいて盛大なため息を吐いた。
(はぁ……。昼休みに学内のベンチでカレー弁当を食べてたら、変な人から謎のサークルへの勧誘があったことは一度忘れよう)
ハルトは大学の大講義室の席に腰を下ろし、心の中で強くそう念じた。
思い出すだけで胃がもたれそうな妙な出来事だった。
(それよりも、この退屈な授業さえ受けきれば、今日はもう帰れるんだ)
これから始まるのは、学部全体の共通科目だ。
数百人が同時に受講するいわゆる「マンモス授業」だが、ハルトと同じ学科の人間でこれを履修している物好きはほとんどいない。
知り合いに絡まれる心配のない、完全な孤独。
それはハルトにとって最高の癒やし空間になるはずだった。
彼はわざわざ一番前の席陣取り、周囲の雑音をシャットアウトするように、ふぅ、と大きく息を吐いた。
(よし、とりあえず授業はちゃんと受けて、とっとと帰るか)
教科書とノートを机に広げ、シャープペンシルを握り直した、その時だった。
「あら、ハルトくんじゃない。この授業履修してたのね!?」
鼓膜を突き刺すような明るい声が、すぐ耳元で弾けた。
「ええ!?」
あまりの衝撃に、思わず素っ頓狂な声が口から飛び出した。
シーンと静まり返りつつあった広い教室の静寂に、ハルトの絶叫が虚しく響き渡る。
前方の席ということもあり、後ろに座っていた数百人の学生たちがギョッとしたように一斉に振り返った。
突き刺さるような視線の痛さに、ハルトは一瞬で耳まで真っ赤にする。
「あっ、すいません……」
小さくなって周囲に頭を下げていると、声の主がさらに追い打ちをかけてきた。
「ちょっとハルト君うるさいわよ! 何をそんなに驚いてるの?」
「浅野さん……。なんでここにいるの?」
ハルトは信じられないものを見る目で、隣に立つ女子学生――浅野を見上げた。
「なんでって、この授業を履修しているからに決まっているじゃない」
浅野は呆れたように肩をすくめる。
「この授業、知り合いが誰も履修してなくて、困ってたのよね」
彼女はそう言いながら、まるで自分の指定席か何かであるかのように自然な動作で、ハルトの隣の席にドカッと鞄を置いて座り込んだ。
「……なんで隣に来るんだよ」
ハルトが顔をしかめて小声で抗議するが、浅野はどこ吹く風だ。
「いいじゃない。いいじゃない、昨日の『旅の相棒』なのよ? それより、『銀次の旅ログ』だっけ? 昨日の動画は、いつ上がるのかしら? 私をサムネにするなら事前に言ってほしいわ」
「ちょっと、大学でその名前出さないで!」
ハルトは慌てて周囲を気にしながら、声を潜めて彼女を制した。
しかし、浅野のテンションは下がる気配がない。
「え? いいじゃない銀次。なんか大河ドラマに登場する豪商みたいで味があるわ」
「『越後屋、お主も悪よのう』って誰が江戸っ子商人だよ!」
「あはは! ノリがいいのね!」
浅野はケラケラと楽しそうに笑う。
教壇に教授が立ち、授業が始まる直前だというのに、彼女のマシンガントークは一向に止まらない。
周りの学生たちの視線が、チラチラとこちらに向くのが嫌でもわかった。
「あいつら付き合ってんのか?」「授業前にイチャイチャしてうるさいな」という無言の圧力が、痛いほどハルトの肌に突き刺さる。
ただ静かに一日を終えたかった。
そんな平和を愛するハルトの堪忍袋の緒が、プチリと音を立てて切れた。
「なあ、少し黙ってくれないか?」
ハルトの声音の冷たさに、浅野は一瞬目を丸くした。
「え?」
「え、じゃないよ。大体なんなんだよ。昨日から我儘滅茶苦茶言ってきたり、今みたいに隣にどかんと座ってきたり、距離の取り方おかしいんじゃないか?」
「そんなこと……」
言い返す浅野の言葉を遮るように、ハルトは一気にまくし立てた。
「大体、浅野さんは周りの視線が気にならないの? ここまでうるさく喋っているのは、僕と浅野さんだけだよ」
言い切ったハルトの胸に、荒い呼吸が残る。
浅野はバツの悪そうな顔で視線を泳がせ、それから小さく俯いた。
「……そう、ハルト君、嫌だったのね」
消え入りそうな声だった。
いつもの傍若無人な彼女からは想像もつかないその表情に、ハルトは息を呑んだ。
「……!」
(ああそうだ、嫌だ! 迷惑なんだ!)
そう言って追い出せばいいはずだった。
しかし、その最後のとどめの一言が、ハルトの喉の奥でつかえてどうしても出てこない。
自分の吐き出した拒絶の言葉の重さに、自分自身が窒息してしまいそうな感覚に陥る。
気まずい沈黙が二人を包み込んだその瞬間、マイクのハウリング音が教室に響いた。
「はい、それじゃあ授業はじめまーす!」
教授の間抜けた声がスピーカーから流れ、強制的に二人の会話はシャットアウトされた。
結局、ハルトは浅野と一言も口を利くことなく授業時間を過ごした。
いや、本当に何事もなく、ただ時間だけが過ぎて授業が終わってしまったのだ。
「じゃあ今回はこれで終わります。次回早速小テストやるので、復習してきてくださいね」
教授が学生たちに授業終了の合図を送ると同時に、浅野は荷物を掴み、まるで逃げるように教室を飛び出して行った。
ハルトはその背中を追うこともできず、ただ見送ることしかできなかった。
ぽつんと残されたデスクの上。
ハルトは自分のノートを見つめる。
そこには、授業の内容などほとんど頭に入っていないことが一目でわかる、乱雑に書き殴られたシャープペンシルの跡が並んでいた。
(……もう、彼女とは関係ない)
ハルトは自分に言い聞かせるように、深く息を吐きながらノートを閉じた。
(どうせ僕には学科内で友達なんてできないし、他の人も関係ない。うん、関係ないんだ)
冷たい割り切り。
それが一番傷つかない方法のはずだった。
だけど、家へと向かう道中、ハルトの心の中にはズシリと重りが積まれたような感覚が残り続け、酷く気持ちが悪かった。
「ただいま……」
重たい足取りで玄関のドアを開け、リビングに入ると、キッチンから母親が出迎えてくれた。
「ハルト、お帰り。……あら、なんかあったの?」
顔を見ただけで息子の異変を察知する。
さすがは母親である。
ハルトは都内の私立エスカレーター校育ちで、絵に描いたようなお坊っちゃんだが、彼の母親は決して息子を甘やかすだけの親ではなかった。
どこか鋭く、それでいて包容力がある。
ハルトは母親の視線から逃れるように、ごまかしながらソファーへ鞄を置いた。
「いや、別に……。ちょっと大学で疲れただけ」
「ふーん……。彼女?」
「いや違うから!」
母親の唐突なストレートパンチに、ハルトは思わず声を裏返した。
「な~んだ残念。じゃあ何があったの?」
「なんでもないって言ってるじゃん!」
意地を張るハルトを見て、母親はふっと微笑んだ。
そして、湯気の立つ温かいコーヒーのカップをトレイに乗せ、テーブルにそっと置いた。
「ハルト、小さい頃に教えたこと覚えてる?」
紅茶の香りがリビングに広がる中、ハルトは怪訝そうに眉をひそめた。
「……急に何の話?」
母親はハルトの目をじっと見つめ、諭すように語りかけた。
「自分が悪いと思ったら、言い訳せずにごめんなさい。……相手が悪くても、自分が言いすぎたと思ったら、やっぱりごめんなさい」
「……っ」
母親の言葉は、今のハルトの心の一番柔らかい部分に、痛いほど深く刺さった。
「意地を張っても、良いことなんて一つもないわよ。特に、大切にしたい縁なら尚更、ちゃんと謝ってきなさい」
ハルトは完全に図星を突かれ、言葉を失った。
気まずさに耐えかねて、視線を泳がせる。
「……別に、大切な縁とかじゃないし」
「あれ? もしかして本当に彼女?」
「だから違うって!」
ムキになって否定しながら、ハルトは照れ隠しに紅茶を一口すすった。
丁寧にいれられた紅茶の温かさが、張り詰めていた胃の腑へじんわりと染み渡っていく。
(……明日、謝ろう)
温かさに背中を押されるように、ハルトは心の中で小さく決意した。
浅野とはどうせ同じ学科なのだ。
これからも顔を合わせる機会はいくらでもある。
このまま気まずい関係を引きずるより、大人になって自分から謝ってしまった方がいい。
それに、よくよく考えなくても、自分のYouTubeチャンネルの存在がバレている以上、彼女を敵に回すのは得策ではないという現実的な計算もあった。
「よし」と自分に言い聞かせ、ハルトはその夜、いつもより早めにベッドに入って目を閉じた。
翌日。 キャンパスの木々が朝日に照らされる中、ハルトは昨日とは打って変わって、決意に満ちた凛々しい顔で歩いていた。
(まずは挨拶だ。それから昨日の非礼を詫びる。菓子折り……は流石にやりすぎだから、学食のソフトクリームくらい奢れば許してくれるか?)
頭の中でのシミュレーションは完璧だった。あとは実行に移すだけだ。
講義棟の前に広がる大きな広場。
多くの学生が行き交う人混みの中に、ハルトは特徴的な後ろ姿――浅野の姿を見つけた。
友人と熱心に話していたようだが、ちょうど友人が離れ、彼女が一人になった。絶好のタイミングだ。
ハルトは深く息を吸い込み、彼女の背中に向かって一歩踏み出した。
「あ、あのさ! 浅野さ……」
ハルトが声をかけようとした、まさにその瞬間だった。
「ハルトくん!」
言葉を言い終わる前に、浅野がバッと勢いよく振り返った。
その目はまるで、獲物を見つけた猛獣のようにつり上がっている。
彼女の顔には笑顔のかけらもなく、恐ろしいほどの真剣みが漂っていた。
ハルトは思わず気圧され、準備していた謝罪の言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
「ちょうどいいところに来たわね! ちょっと顔貸しなさい!」
「え? あ、いや、僕は君に謝りたくて……」
「諸々含めて話があるの! とにかくついてきて!」
ガシッ!
ハルトの弁明を聞く耳など持たないとばかりに、あの驚異的な握力がハルトの手首を容赦なく掴んだ。
「え、ちょ、どこ行くの!?」
「公園! 大学裏の公園よ!」
「はぁ!? 次の授業は!?」
「サボるわ!」
「正気かよ!?」
浅野は有無を言わさず、驚くべき腕力でハルトを引きずり始める。
広場にいる周りの学生たちから、「朝から何だあいつらは」と言わんばかりの奇異の視線が突き刺さる。
ずるずると引っ張られながら、ハルトは天を仰いだ。
(うそでしょ!? 『ごめんなさい』を言う隙すら与えてくれないよ、この人は……!)
ハルトの心の中の悲痛な叫びは誰に届くこともなく、彼は本日もまた、嵐のような浅野のペースに巻き込まれていくのだった。




