3話 隣、座っていいですか?
浅野さんに振り回された翌日。 午前中の授業が終わり、待望の昼食の時間がやってきた。
幸いなことに、この日は同じ学科の連中と顔を合わせる講義がない。大学に入学してまだ日の浅いハルトにとって、「知り合いに遭遇しない」というのは、それだけで一日の平和が約束されたようなものだった。
人気のないキャンパスの片隅、ポツンと置かれたベンチに腰を下ろす。
「ここなら、誰も来ないよな……」
誰もいないことを確認し、ハルトは盛大なため息を漏らした。 はぁ……と吐き出した息に、昨日から溜め込んでいた愚痴を乗せる。
「昨日は本当に散々だった!」
よくわからない女子大生――浅野さんにひたすら振り回され、予定していた動画の撮影計画はものの見事に狂わされた。そう、昨日の出来事はハルトにとって完全に想定外のトラブルだったのだ。
なのに、どういうわけか、彼女の別れ際の台詞が頭の奥にこびりついて離れない。
『じゃ、また、大学で会いましょ?』
「あーもう! なんであの言葉が頭から離れないんだよ!」
ハルトは頭をがしがしとかきむしった。
というか、普通は同じ学科のやつを駅で見かけたからって、わざわざ話しかけたりしないだろう。あの距離感の詰め方は一体どうなっているんだ。
「……はぁ、とりあえずお腹空いた」
考えても仕方のないことに思考を巡らせるのをやめ、ハルトは手元の袋に視線を落とした。
コンビニで買ってきたカレー弁当のビニールを剥ぎ、パカッとプラスチックの蓋を開ける。
湯気こそ出ていないが、店員に電子レンジで温めてもらったばかりのそれは、スパイスの香ばしい香りをふわりと漂わせ、ハルトの鼻先をくすぐった。
「いただきます」
スプーンを手に取り、最初の一口をまさに口に放り込もうとした――その時だった。
「すいません、隣、座っていいですか?」
「え?」
唐突に上から降ってきた声に、ハルトはスプーンを止めて振り向いた。
そこには、見知らぬ女性が立っていた。ハルトの怪訝そうな視線に気づいたのか、彼女は慌てたように両手を振る。
「あ、すいません! いきなり声かけちゃって。私は考古学研究会の勧誘をしている、大学二年の藤宮ヒマリです。よろしくお願いします!」
パッと花が咲いたような、やたらとキラキラした笑顔だった。
「眩しっ!? 俺じゃなきゃ目が潰れてたぜ……」
ハルトは冗談交じりに顔を伏せた。
……はずだったのだが、ヒマリは両手を頬に当てて大袈裟に驚いてみせた。
「目が潰れる!? それは大変ですね! 救急車呼びますか!?」
「目が潰れる!? それは大変ですね! 救急車呼びますか!?」
「ちがうちがう♪ そうじゃ、そうじゃな〜い♪」
「違うんですか?」
「言葉の比喩ってやつだよ」
ハルトは気を取り直し、先ほどの彼女の言葉を頭の中で反芻した。
「それで、えっと……考古学研究会、だっけ? そんなサークル、入学してから半月以上経つけど一度も聞いたことないよ」
「それはそうかもしれません」
ヒマリはふふっと悪戯っぽく笑う。
「実は私達、考古学研究会は、他の大学を拠点にするインカレサークルなんですよ」
「そうなの? それじゃあ、ヒマリさんも別の大学の……?」
「いえ、私はこの大学の理学部の生徒です」
そう言いながら、ヒマリはごく自然な動作でハルトの隣に腰を下ろした。いつの間にか自分のカバンからカレーパンを取り出している。
(行動力の化身か、この人……)
ハルトの内心の戦慄など露知らず、ヒマリはまったく気にした様子を見せずに、カレーパンをぱくりと頬張った。
そのあまりに堂々とした態度に、ハルトはついつい疑いの目を向けてしまう。
「というか……そのサークル、どっからどう見ても怪しいよ。本当は宗教の勧誘とかなんじゃないの?」
ストレートすぎるハルトの指摘に、ヒマリはカレーパンをモグモグと咀嚼しながら、あっさりと頷いた。
「そうですよね。やっぱり怪しいですよね……」
「いや、自分で認めちゃうんだ……」
あまりの素直さに調子を狂わされる。するとヒマリは、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「でしたら、今日はチラシだけもらっていってください」
「まあ……それくらいだったらいいですけど」
差し出されたチラシを受け取ると、ヒマリは「ありがとうございます!」と嬉しそうに声を弾ませた。
「そうだ、名前教えてもらっていいですか?」
「え……どうして?」
「せっかくなので、少しお話しようかなと思いまして。私もしばらく休憩ですし」
(なんでサークルの勧誘の人と、昼休みに雑談する流れになってるんだよ……)
ハルトは内心で頭を抱えた。
しかし、人並み外れた行動力を発揮する彼女を前に、波風を立てずに断る明確な理由も思いつかない。
「……まあ、いいですよ。僕はハルトです」
「ハルトくんですね?」
ヒマリは嬉しそうに復唱する。
「改めて、私はヒマリと言います。理学部の二年生です」
「二年生……ということは、先輩なんですね。ヒマリ先輩って呼べばいいですか?」
「はい!」
ヒマリは満面の笑みで頷いた。
「じゃあ私は、ハルト君と呼ばせていただきますね」
そう言って向けられたのは、今日一番の、それこそ背景に大輪の花が咲き誇るかのような笑顔だった。
完璧に計算され尽くしたような、一切の陰りもない「絵に描いたような普通の女子大生」の笑顔。
そのあまりの眩しさに、ハルトはまたもや思わず目を細めてしまう。
平穏を愛する陰キャな旅行オタクにとって、静かな「おひとり様ランチ」という至福の時間は、どうやら今日も長続きしない運命にあるらしかった。
――その後もしばらく、二人の奇妙な世間話は続いた。
ヒマリ先輩のノンストップなマシンガントークに、ハルトが全力でツッコミを入れ続ける。
そんなやり取りをくり返しているうちに、気が付けば彼女の方が先にカレーパンを食べ終えていた。
「それじゃあ、私はこれで失礼しますね。あ、これ、私の連絡先です。また会うかもしれないので、どうぞ」
言うが早いか、ヒマリは手慣れた動作でスマートフォンの画面を操作し、連絡先交換のQRコードをハルトの目の前に差し出してきた。
(いやいや、ただのサークル勧誘で連絡先交換って……やっぱりめちゃくちゃ怪しくね!?)
内心のツッコミメーターが限界を突破しそうになるが、ここで断って気まずい空気になるのを嫌うのが、ことなかれ主義たるハルトの性である。
結局、大人しく自分のスマートフォンを取り出す羽目になった。
「うん……。まあ、多分もう会うことはないと思うけど、一応ありがとう」
「ありがとうございます! それではハルト君、また会いましょうね」
連絡先の登録が終わると、ヒマリは軽やかに立ち上がった。
そして最後まで一点の曇りもない完璧な笑顔をハルトに残し、風のように去っていった。
さっきまでカレーパンが入っていた紙ゴミを握りしめたまま、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見送る。
静寂を取り戻したベンチで、ハルトはすっかり冷めきってしまったカレー弁当に、再びスプーンを入れた。
口の中に広がるスパイスの味を感じながら、ぽつりと呟く。
「めちゃくちゃ笑顔が可愛い先輩だったな……。あれは絶対に、男女問わず誰からも好かれる完璧な優等生キャラだ……」
まるで嵐が去ったかのような余韻の中、ハルトはただただ呆然と、静かな青空を見上げるのだった。




