二章閑話1
退院から数日後。
ナルトchこと桑原は、スマホの連絡先画面を前に、脂汗を流していた。
画面に表示されている名前は『桑原 梨子』。
二つ下の妹であり、現在は都内の私立大学に通う一年生だ。
だが、この二年間、まともに会話をした記憶がない。
大学入学と同時に一人暮らしを始めた桑原が、実家との連絡を絶ち、趣味の世界に閉じこもっていたからだ。
キラキラした女子大生の妹と、陰キャ全開の兄。住む世界は完全に分断されていた。
「……でも、今の自分の知識じゃ無理だ」
桑原は鏡を見た。
ボサボサの髪、ヨレヨレのTシャツ、指紋だらけの眼鏡。
ネットで「垢抜け」を検索しても、マッシュ、ツーブロック、セットアップなどの専門用語の羅列が、異世界の呪文にしか見えない。
自分一人でやれば、「方向性を間違えた痛いデビュー」になって事故る未来が見える。
やはり、客観的な視点が必要だ。
それも、辛辣で正確な「一般女子」の視点が。
「……やるしかない」
桑原は震える指で、通話ボタンを押した。
数コールの後、不機嫌そうな声が響いた。
『……もしもし? 何? 急に』
「あ、ああ……梨子か? 俺だ、兄貴だ」
『登録してるからわかるけど。何? 金なら貸さないよ? 壺も買わない』
「ちげぇよ! ……あー、その、頼みがあるんだ」
桑原は覚悟を決めて、腹から声を出した。
「自分を……カッコよくしてくれ!」
電話の向こうで、長い沈黙が流れた。
そして。
『……ハァ?』
底冷えするような低い声が返ってきた。
週末の表参道。
桑原にとっては、ラッシュアワーという戦場よりも恐ろしいアウェーの地だ。
交差点の端で縮こまっていると、流行りのカフェラテを持った女子大生が現れた。
明るいブラウンの髪を巻き、トレンドのファッションに身を包んだ妹、梨子だ。
「……で? どういう風の吹き回し?」
梨子は、兄の姿を上から下までジロジロと見て、露骨に顔をしかめた。
「そのTシャツ、いつの? 首元ダルダルじゃん。歩く粗大ゴミ?」
「ぐっ……まぁ……仕方ないか」
「久しぶりに会ったと思ったら『カッコよくしてくれ』? 頭打った? それとも女でもできた?」
梨子の目は冷ややかだ。
無理もない。二年間音信不通だった兄が、急にこんなことを言い出せば不審がるのは当然だ。
桑原は深呼吸をした。嘘はつかない。
「ライバルが、できたんだ」
「ライバル?」
「ああ。自分なんかよりずっと輝いてて、人気もあって……でも、自分のことを認めてくれた奴らがいる。そいつらと同じ土俵に立ちたいんだ」
桑原は真っ直ぐに梨子を見た。
「中身はこれから磨く。でも、外見がこのままじゃ、スタートラインにも立てない。……自分にはセンスがない。だから、お前の力を貸してほしい」
「…………」
梨子はストローを口から離し、兄の目をじっと見つめ返した。
昔の兄なら、すぐに目を逸らしていただろう。
でも、今の目は逃げない。
梨子は小さくため息をつき、飲み干したカップをゴミ箱に投げ入れた。
「……わかった。そこまで言うなら、付き合ってあげる」
「本当か!?」
「その代わり! 私の言うことには絶対服従。口答え禁止。『でも』『だって』は罰金。OK?」
「は、はい。承知いたしました」
「よし。じゃあ行くよ、お兄ちゃん。……その『チー牛』スタイル、完膚なきまでに破壊してあげる」
桑原は、自分の妹の目が、怪しく光ったように感じた。
最初に連れて行かれたのは、梨子の行きつけの美容室だった。
ガラス張りのお洒落な店内。
桑原の緊張は既にピークに近い状態だった。
「店長さん! この人、私の兄なんですけど、素材は悪くないはずなんで、徹底的にやってください!」
「おー、梨子ちゃんの紹介なら頑張っちゃうか!」
チャラそうな美容師がハサミを鳴らす。
「ちょ、梨子、これ短すぎないか? 前髪がないと落ち着かなくて……」
「あ? 口答え禁止。お兄ちゃんはおでこ出した方が清潔感出るの。隠すから陰気に見えるんだよ」
ジョキジョキジョキ。
床に黒い髪の山ができる。
一時間後。
鏡の前には、アップバングのショートヘアになった桑原がいた。
眉毛も整えられ、顔の輪郭がはっきりとしている。
「……誰だこれ」
「うん、やっぱり骨格はまともだった。眼鏡外してみて」
言われるままに眼鏡を外す。
「……目は悪くないね。コンタクトにする?」
「いや、眼鏡は残したい。これは俺のアイデンティティだから……」
「チッ。ま、いいか。じゃあ次、眼鏡屋行くよ。その牛乳瓶の底みたいな眼鏡、窓から投げ捨てなさい」
というわけで、次に連行されたのは、メンズのセレクトショップである。
梨子は迷いなく店内を歩き回り、次々と服をピックアップしていく。
「はいこれ。着て」
「えっ、このパンツ細くない? 入るかな……」
「入るわよ。お兄ちゃんガリガリなんだから。今までデカい服で誤魔化してただけ」
試着室に押し込まれる。
渡されたのは、細身の黒いスラックス、ネイビーのシャツ、そして薄手のグレーのカーディガン。
恐る恐る着替えてカーテンを開けると、梨子が腕組みをして待っていた。
「……ふーん」
梨子は兄の周りを一周した。
「悪くないじゃん。猫背やめて、背筋伸ばして」
「こ、こうか?」
「そう。……へぇ、意外とスタイルいいんだ」
梨子がボソッと呟く。
そして、最後に眼鏡屋で作った、細フレームのボストン眼鏡をかけさせる。
「……完成」
全身鏡の前に立たされた桑原は、絶句した。
そこにいたのは、清潔感のある、知的な雰囲気の青年だった。
「キモいオタク」の影はどこにもない。
むしろ、大学のキャンパスを歩いていれば、女子が振り返るレベルの変貌ぶりだ。
「これが……自分……?」
「素材は悪くなかったってことね。手入れしてなかっただけで」
梨子は満足げに頷いた。
「どう? これならライバルの隣に立っても恥ずかしくないでしょ?」
「……ああ。すごいな、梨子。お前、魔法使いか?」
「バカ言わないで。ただの女子大生の努力と知識よ」
梨子はふん、と鼻を鳴らしたが、その表情は少し嬉しそうだった。
帰り道。
二人は並んで表参道を歩いていた。
すれ違う人々が、もう桑原を奇異な目で見ない。むしろ、お洒落な兄妹として景色に溶け込んでいる。
「ありがとうな、梨子。助かった」
「……別に。久しぶりにお兄ちゃんの財布で服買えたし、ランチも奢ってもらえたからチャラよ」
梨子はそっけなく答えるが、以前のような険悪な空気はない。
不意に、梨子が立ち止まった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんの動画、見たよ」
「えっ!?」
桑原は飛び上がった。家族に見られているとは想定外だ。
「ほら、お母さんが『ケイタが変なことしてる』って心配してURL送ってきたから。……鉄道のことばっかりで何言ってるか全然わかんなかったけど」
梨子は少しだけ笑った。
「でも、楽しそうだった。……高校の時、毎日のように暗い顔して学校に通っていたお兄ちゃんより、今のほうがずっといいよ」
桑原は胸が熱くなった。
絶縁状態だった妹。
何も見ていないと思っていた家族。
でも、彼女なりに兄のことを気にかけてくれていたのだ。
「……次は、もっと面白い動画にするよ。見た目だけじゃなくて、中身もリニューアルするから」
「期待しとく。……あ、もしまた服選びに困ったら、連絡してきてもいいけど?」
「ああ、頼むよ。スタイリスト料、弾むから」
兄妹は顔を見合わせ、初めて自然に笑い合った。




