二章エピローグ
ハルトは、気が付くと一人、電車に揺られていた。
ガタン、ゴトン。
規則的な車輪の音が、静かな空間に響いている。
「あれ……ヒマリ先輩は……?」
先ほどまで、自分の右手を握ってくれていたヒマリの姿がない。
電車の窓の外には、深い夜の闇が終わりを告げ、陽が昇り始める直前の、淡い紫とオレンジが混ざり合った美しい暁の空が横に流れていた。
視線を車内に戻し、再び正面を向くと、ボックスシートの反対側に、妖艶な女性が一人、足を組んで座っていた。
「さて、この世を去る前に、あなたに挨拶をしておきましょうか。秋津ハルト」
ヒマリの姿ではなく、悪魔としての真の姿――いや、すでに魔も抜け落ちた、ただ一人の気高き女性としての姿をしたラストが、静かに微笑みかけていた。
「……何の用だ、ラスト」
「そんな怖い顔しないで。試験は合格よ」
「試験?」
「そう。あなたは、この先、アサとヒマリと関わることで、本来は知る必要のないことを知ることになる。それにあなたが耐えられるのか、試験をしていたの」
ハルトの脳裏には、先ほどの圧倒的なラストとの実力差。
そして……。
ハルトは、ヒマリの背中姿と思い出した。
「知る必要のないこと……それは……」
「さぁ。それを私の口から言うのは、御法度じゃない?」
人差し指を唇に当てて悪戯っぽく笑うラストに、ハルトは黙ってしまった。
「あの子たちはとても優しい。それ故に脆く崩れやすい」
ラストはふと目を細め、流れる暁の空を窓越しに眺めた。
その横顔には、長い間ヒマリという一人の少女の心の内側に寄り添ってきた、彼女なりの慈愛のようなものが滲んでいた。
「守るべきもの、捨てるべきもの。何を大事にし、何を諦めるか、判断を間違えてはいけないよ」
「それはどういう……」
「いずれわかるときが来る」
キィィィィン、と。
電車はやがて、減速していく。
窓の外には、何もない真っ白なプラットホームが近づいてきていた。
「私は、ここで降りる。このまま電車に乗り続ければ、元の世界に戻れるだろう。あとのことは……まあ、いっか」
やがて、電車が完全に止まり、プシューという音と共にドアが開く。
ラストは立ち上がり、迷いのない足取りで開いた扉へと歩き出した。
「降りるのか?」
「ええ。もうこの世に用はないもの」
ラストは、ホームへ降り立つ直前、ハルトの方を振り返った。
「じゃあね、坊や。あなた達の行く末を祈ってるわ。無様な顔であの世に来ないことね」
それが、彼女の最期の言葉だった。
ラストが電車を降りた直後、扉が静かに閉まり、電車は再び動き出してホームを出ていく。
遠ざかるプラットホームに立つラストの姿は、朝焼けの光の中に溶け込むように、一瞬で見えなくなった。
「……ん」
消毒液の匂い。
ハルトが重い瞼を開けると、そこは無機質な白い天井だった。
電車の揺れはもうない。
静かで、平穏な空気が満ちている。
(ここは……)
ゆっくりと首を巡らせる。
ここは大学の裏手にある、教会の予備施設の医務室のようだった。
右隣のベッドを見ると、アサがスースーと気の抜けた寝息を立てて眠っている。
布団を蹴飛ばして、だらしなく手足を投げ出しているその姿に、ハルトは思わず苦笑した。
そして左隣のベッドでは、ヒマリが静かに、本当に穏やかな表情で眠っていた。
サイドテーブルには、いつもの伊達メガネがきちんと畳まれて置かれている。
(……よかった。二人とも、無事なんだ)
深く安堵の息を吐き出した、その時だった。
「おや、目が覚めたかい。お疲れさん、YouTuberの少年」
ふいに、部屋の入り口から声がした。
のんびりとした、どこか気の抜けたような男の声。
ハルトが視線を向けると、そこには白衣を羽織り、くしゃくしゃの頭を掻いている長身の男が立っていた。
だらしない無精髭を生やしているが、その瞳の奥には隠しきれない鋭い光が宿っている。
「あなたは……?」
「俺? 俺は……まあ、この面倒くさい地下施設を管理してるしがない留守番役さ」
男はベッドの足元まで歩いてくると、眠るヒマリを一瞥し、やれやれと肩をすくめた。
「それと……いつも無茶ばかりするこの不器用な青髪の娘の、一応『師匠』にあたる人間だよ。……いやぁ、うちの弟子が、随分と世話になったみたいだね」
「あの……僕たちは確か……」
「ああ、そうさ。大学の中で伸びてる三人を、我々が夜明け前に回収して、この医務室に運んだんだ」
「そしたら、あの、あなた達は……」
「うーんそうだね。俺たちも、総務省異界管理局……通称、エクソシスト、ということになるね」
エクソシスト……ハルトは身構えた。
「そんなに硬くならないでよ。あ、これ名詞」
名詞には、土方大和と書かれていた。
「あ、どうも……」
「ハッハッハッ。まあこれから、何かとお世話になることもあるかもしれないし、よろしくな」
土方は、一方的にそれだけを言うと、ひらひらと手を振りながら再びペタペタとサンダルを鳴らして医務室を去って行った。
嵐のように現れて去っていく、まるで掴みどころのない男だった。
ハルトがポカンと名刺を見つめていると、
「おはようございます。ハルト君」
ふいに、左隣のベッドから、微かに掠れた柔らかい声がした。
ハルトが振り返ると、ヒマリがゆっくりと体を起こし、まだ焦点の合わない目を擦りながら、こちらに向かって小さく微笑んでいた。
「え? ああ、おはよう、ヒマリ先輩」
「ラスト……は、行ってしまったんですね」
ヒマリは、自分の胸元にそっと手を当てながら、どこか遠くを見るような目をした。
その表情には悲壮感はなく、ただ、長年自分の中にあった「大きくて重い何か」がぽっかりと消え去ったことへの、不思議な喪失感と安堵が入り交じっているようだった。
「……うん」
「そうですか」
「ラストは、多分、ずっと先輩のことが心配だったと思うよ」
「そうでしょうね。……全く、最期までお節介な悪魔……いえ、人だったと思います」
「それ、順番が逆じゃない?」
ハルトが思わずツッコミを入れると、ヒマリはふふっと笑みをこぼした。
「いえ、あってますよ。彼女は、『悪魔』の皮を被った、優しい『人間』です」
凄惨な過去から彼女の心を守り抜き、最後は自らの命すら未練なく手放していった気高き悪魔。
ハルトもまた、夢の中で出会った彼女の最期の微笑みを思い出し、深く頷いた。
「……そうだね。確かに、そうだ」
「むにゃ……あれ……?」
静かな朝の空気を破るように、今度は右隣のベッドから間の抜けた声が上がった。
見ると、アサが掛け布団を派手に蹴飛ばした状態で、むくりと寝癖だらけの頭を起こしていた。
「おはよう、アサ。大丈夫?」
ハルトが声をかけると、アサは目を半分閉じたまま、ぼんやりと宙を見つめている。
「うーん……なんか、寝起きで頭がぼやけている以外は、大丈夫よ」
「そうなんだ。良かった」
大あくびをしながら答えるその無防備な姿に、ハルトは「いつも通りだな」と苦笑した。
死線を潜り抜けた翌朝でも、彼女のこの逞しさは変わらないらしい。
目をこすりながら周囲を見渡していたアサの視線が、ふと、ハルト越しにヒマリの姿を捉えてピタリと止まった。
「あれ……ヒマリ。……戻ってきたのね。おかえり」
アサの声から、いつものトゲが消えていた。
悪魔の気配が完全に抜け落ち、本来の『ただの人間』としての柔らかさを纏ったヒマリを見て、アサは心底ホッとしたように目元を緩めた。
「ええ。ただいま、アサ」
ヒマリもまた、今まで見せたことのないような、年相応の飾らない笑顔で頷き返した。
そこにはもう、魔法使いとエクソシストという壁も、悪魔憑きという呪縛もない。
ただの同年代の少女同士の、穏やかな朝の光景があった。
ハルトは両隣のベッドで眠気眼をこする二人の姿を眺めながら、医務室の白い天井を見上げ、今後のことをぼんやりと考えはじめていた。
大学に入学してからここまで、いろいろなことがあった。
新宿駅でのアサとの最悪な出会いから始まり、魔法という非常識を知り、悪魔と対峙し、YouTuberとして活動し、そしてヒマリ先輩の抱える深い闇に触れた。
気が付けば、もうあと一か月で、前期の授業が終わるところまで来ている。
とてもあっという間だったと思う。
『守るべきもの、捨てるべきもの。何を大事にし、何を諦めるか、判断を間違えてはいけないよ』
ラストのその言葉が、今でも脳裏にこびりついて離れない。
判断……自分は、果たしてどうしたいのだろうか。
ただ一つ言えることがある。
自分はこの先も、アサやヒマリ先輩と、鉄道旅行系Youtuberを続けられればいいと願っているということだ。
だってまだ、二人に見せたい景色はいっぱいあるのだから。




