38話 通りすがりの悪魔
「さて、それじゃあ少し、話でもしようか?」
アスファルトの上に倒れ伏したハルトの意識が、完全に深淵へと沈み込んだことを確認すると、ヒマリの皮を被った悪魔――ラストは、急にその口調を変えてきた。
つい先ほどまで纏っていた、ねっとりとした優雅なお嬢様のような態度は綺麗さっぱり消え失せている。
代わりに現れたのは、まるで女番長のような、どすの効いた低い声だった。
「……私達を殺すんじゃなかったの?」
アサは、倒れたハルトを背中で庇うように立ち塞がりながら、キッと鋭い視線でラストを睨みつける。
指先にはいつでも極大の魔法を放てるよう、チリチリと魔力を練り上げていた。
「安心しなさい。あなたの相棒も、この身体の持ち主も、……そしてあなた自身も、殺すことはないから」
「なっ……嘘よ!」
「本当だって。第一、私は殺すべき相手には容赦なんてしない。例えこの場にヒマリがいたとして、三人がかりでも、今の私に対してですら、息の根を止めることはできない。三秒数える間に、全員首をはねられて終わりだ。あんまり見くびらないでくれない?」
淡々と、事実だけを述べるようなラストの言葉に、アサは息をのんだ。
確かに今のラストからは、殺気も何も感じない。
先ほどまで、あれほど濃厚な死の匂いを振り撒いていた怪物が、今はただの世間話でもするかのように自然体で立っている。
その落差が、ひどく不気味だった。
「じゃあどうして、私達にあんな殺気なんて飛ばしたのよ」
「ん? ああ、それはね」
ラストはそう言って、アサの背後で意識を失い、無防備に伸びているハルトを顎で指し示した。
「この男を試しているの」
「ハルト君を……」
「そう」
ラストはゆっくりと顔をあげ、雲の隙間から覗く月を見上げた。冷たい月光が、ヒマリの整った横顔に落ちる。
「この先、この鉄オタ大学生の陰キャ男は、自分がいかに危ないことをしているのかを知ることになる。そうなった時、現実から目を背けて腰を抜かすような奴じゃあ、お話にならない。私はこいつの命なんてどうでもいいけれど、この先、問答無用でこいつの首を撥ねようとする敵は必ず現れる。あなたたち二人と関わり続ける限りね」
アサはギュッと唇を噛み締めた。血が滲むほどの力で。
「わかる? ここは、あなた達三人にとって分岐点なの。魔法使いの末裔とはいえ、この男は魔力が強いだけのただの一般人。こいつがどちらの選択肢を選ぶかはどうでもいいけれど、あなた達二人と関わり続けるというのなら、それ相応の精神力の強さがないとダメよ」
「そんなこと」
「ないだぁ? 何抜かしてんだお前。自分の境遇わかってないのか? それを彼が知った時、今の彼がどうなるか、想像つかないわけないでしょ? まさか、この先も隠し通せるとでも思ってるの?」
アサは黙り込んだ。
彼女の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打っている。
図星だった。
相棒の命を危険に晒しているという罪悪感が、彼女の心を容赦なく抉っていく。
「あなたが言わなくても、あなたと関わる限り、いつかこの男は秘密を知る時が必ず訪れる。あなたの選択肢は二つ。この男と縁を切り、また一人に戻るか、いつバレるかとヒヤヒヤしながらでもこの男と関わり続け、誰かといる幸福を噛みしめるか。まああとは、この男次第よね」
アサは、抗議の言葉を紡ぐこともできず、ただ下を向いて俯いた。
その細い肩が微かに震えているのを、ラストは見透かしたような目で見下ろす。
「とまあこんな感じで、最大の理由は、秋津ハルトに試練を与えるため。マモンとの撮影の帰り道に、殺す気はなくても殺気を飛ばしたのも、この男が眠る前に、戦闘する意思を見せたのも、全部私の計算通り。今頃この男は、夢の中でこの身体の持ち主の過去を見てる最中だろう」
アサはバッと顔をあげた。
「なにかしら? あーそうだ。確か、魔法少女とエクソシストは、同じ魔法塾で魔法を学んでいたんだったね。安心して。その場面はこの男には見せていないし、この身体の持ち主もそれは許さないだろうから。第一、今それをこの男に見せる理由なんてないしね」
「どうしてそんなこと……」
「言っただろう? 秋津ハルトを試してるんだって。この先、この男が全てを知った時、判断が鈍るような腰抜けじゃあ、こっちが困るんだ。全く、もしもこいつがここに来なかったら、呆れて首を撥ねに行ってたかもしれない」
アサは、予想もしていなかった悪魔の真意に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「ああ、そうそう。目的はもう一つあった」
「何よ……」
「私はこの場で寿命が尽きる。その前に、浅野家の令嬢。お前に渡しておきたいものがあるんだ」
「……は?」
アサは、自分の耳を疑い、完全に呆然とした。
「ちょ、どういうことよ! この場で寿命が尽きるって!?」
アサの裏返ったような叫びが、静まり返った夜のキャンパスに虚しく響き渡る。
しかし、そんなアサの狼狽をよそに、ヒマリの皮を被った怪物は、どこか憑き物が落ちたような、穏やかで透き通るような声で答えた。
「そのまんまの意味よ」
その直後、ヒマリの身体が光り始める。
光始めて10秒後くらいに、ヒマリの身体から明るい球体がゆっくりと飛び出してくる。
やがてそれは地面に着地し、まばゆい光とともに、一人の女性の身体を創り出した。
残されたヒマリの身体は、魂が抜けた身体のように、ばたりと横に倒れてしまう。
「改めて初めまして。私はラスト。色欲を食す悪魔よ。最も、それも昔の話だけど」
ラストはそう言って、アサの目をじっと見た。
光が収まった後、そこに立っていたのは、息を呑むほどに美しい女性だった。
ラストは艶然と微笑み、アサの目をじっと見据える。
現界した彼女の姿は、まさに『色欲』という名にふさわしく、見る者を惑わすような妖艶さを纏っていた。
しかし不思議なことに、彼女から放たれるオーラには、微塵の邪悪さもない。
むしろ、長年何かを一人で守り抜いてきた誇り高き騎士のような、ブレない真っすぐな芯が存在していた。
「そんな……どうして? あなたは、ヒマリの身体を欲しかったんじゃ……」
「いらないわよそんなもの。私はもう、生に固執する必要はない。それよりも、これ……」
ラストがアサに渡したのは、一対の指輪だった。
「片方はあなたのもの。もう片方は、あなたの大切な人のものよ。渡す相手は、よく考えることね」
ラストはふっと目を細め、満ち足りたような表情を浮かべた後、アサに向けてそっと手を差し出した。
彼女の掌の上で淡く光り、アサの手に手渡されたのは、無機質だがどこか温かみのある、一対の美しい指輪だった。
「そんな……こんなもの!」
意味がわからない。
どうして命を懸けて戦うはずだった相手から、こんな贈り物を受け取らなければならないのか。
アサが指輪を突き返そうとすると、ラストはそれを優しく、けれど力強く制した。
「お守りだと思って、貰っておきなさい。ヒマリにも色違いで同じものを渡してあるわ。あの子にも、同じことを伝えてくれると助かる」
そう言い終えると同時に、実体化していたラストの身体が、足元からふわりと光の粒子に変わって崩れ始めた。
蛍の光のように、夜の闇の中へ少しずつ溶けていく。
「アサ……この子……ヒマリの友達でいてくれて、ありがとう」
消えゆく彼女の声は、悪魔のそれではなく、不器用な娘を慈しむ母親のように温かく、震えていた。
「そんな。ちょっと待ってよ。ヒマリに挨拶はしなくていいの? 私との話もまだ終わってないわ。どこに行こうって言うのよ!」
消えゆくラストの身体に手を伸ばし、アサは必死に叫んだ。置いていかないでほしいと願うような、悲痛な声だった。
「アサ……私は、通りすがりの悪魔だ。私のことは、むしろ忘れてほしい。それよりも、今ある縁を大切に、今を生きるんだ。それが私からの最期のメッセージだ」
「ちょっと!」
「というわけで、さらばだ。通りすがりの魔法少女よ。ヒマリを、よろしく頼んだよ」
その言葉を最後に、ラストの身体は完全に眩い光の粒子となって夜空に散り、跡形もなく消え去ってしまった。
「……っ」
あとには、静寂だけが残された。
極度の緊張状態から突然解放されたことで、アサの頭の中で張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れた。
指輪を握りしめたまま視界が急速に暗転し、アサは倒れたハルトとヒマリのそばへ、ばたりと崩れ落ちるように倒れ、そのまま深い意識の底へと沈んでいった。




