37話 契約
気がつくと、ハルトは上下左右の境目すら曖昧な、無機質な真っ白の空間に立っていた。
「ここは……」
見渡すかぎり、狂気的なほどの白。
出口はおろか、自分がどこに立っているのかを測る目印すら存在しない。足元の感覚すら希薄なその場所に、ハルトは先ほどの記憶を必死に手繰り寄せた。
そうだ。
自分は悪魔ラストの魔眼を見てしまって……。
「そうだ! アサ……。アサのところに戻って、ヒマリ先輩を止めないと」
「呼びましたか?」
「うわっ!?」
現実世界で一人残された相棒の身を案じ、焦燥感に駆られて駆け出そうとした、その時だった。
背後から不意にかけられた凛とした声に、ハルトは驚いて振り返る。
そこには、いつもの理知的な佇まいの彼女……ヒマリがニコリと笑い手を後ろで組みながら立っていた。
「ふふっ。なんだかデジャブですね」
「ヒマリ先輩……? 本物……なのか? でも、どうしてこんなところに……?」
「ハルト君。それは、私が聞きたいことです」
ヒマリは不思議そうに小首を傾げた。
「え?」
「ここは、悪魔が作り出した結界空間……うーん、わかりやすく言うと、私の夢の中みたいなところなのですが、どうしてこんなところにいるのですか?」
「ヒマリ先輩の……夢の……中?」
「とまあ、いきなりこんなこと聞かれてもわかるはずありませんよね。まあ、大方あなたがここにいる理由は想像がつきます」
「……理由、わかるんですか?」
「ええ。でも、その理由を説明する前に、まずは私についてきてください」
「う、うん。わかりました」
有無を言わせぬいつものペースに押され、ハルトは真っ白の空間の中を、ヒマリの背中を追って歩き出した。
足音すら吸い込まれていくような静寂の中、ハルトは気になっていたことを尋ねる。
「ヒマリ先輩は、いつからここにいたんですか?」
「マモンがいたスタジオから駅に向かって歩いてる途中で、私だけ白い靄に包まれて、気がついたらここにいました。その様子ですと、ハルト君はもうあの人に会っているようですね」
あの人とは、おそらくヒマリの身体を乗っ取って表に現れた悪魔、『ラスト』のことだろうか。
「少し、私の昔話に付き合ってくれませんか?」
ヒマリがふと足を止めた。
いつの間にか目の前には、この真っ白な世界には不釣り合いな、古びて重苦しい『鉄の扉』が出現していた。
ヒマリは指先に魔力を集め、アンティーク調の鍵を空中に作り出す。
「ヒマリ先輩……?」
ハルトが思わず声をかけたのは、鍵を握る彼女の指先が、微かに、しかし確かに震えているように見えたからだ。普段の完璧な彼女からは想像もつかないような、生々しい恐怖と葛藤。
ヒマリはフッと、小さく息を吐いてその震えをごまかした。
「……ハルト君、君には何も説明しませんので、何も聞かないで、とりあえず私についてきてください」
「……わかりました」
ガチャリ、と重い音を立てて鍵を開け、ヒマリはハルトと共にその扉をくぐった。
「うっ!?」
扉の中に入った瞬間、強烈な腐敗臭と酸いアルコールの匂いが鼻を突き、ハルトは思わず口元を覆った。
そこは、先ほどの無菌室のような白から一転して、生活感と絶望が入り混じった薄暗い六畳半の部屋だった。
「なんだ、この匂い」
ヒマリは何も答えない。
ただ、まっすぐ部屋の中を見つめていた。
ハルトもそれに倣い、部屋の中をじっと見た。
よく見ると、ゴミ溜めのような部屋の奥に、3人の人影があった。
突如、ハルトの胃袋が激しくひっくり返るような急激な吐き気が訪れた。
そこにいたのは、全身アザだらけの女性と幼い少女、そして紅潮した顔で何やら怒鳴り散らしながら暴れまわっている一人の男性。
窓は分厚いカーテンで締め切られており、昼か夜かもわからない、とても薄暗い部屋。
部屋の中は、ゴミで溢れかえっていて、その中には酒の空き缶や空き瓶が多数散乱しており、男性が暴れるたびにカラカラと嫌な音を立てる。
空気が酷く淀み、息を吸うだけで肺が腐りそうだった。
とても人間が正気を保って生きていける空間ではない。
女性と男性は、少女の親なのだろう。
だが、男性からは人間としての理性ではなく、何かが腐敗したようなドス黒いオーラが漂っている。
部屋の隅に座り込んでいた少女と母親の目からは、完全に光が失われていた。
抵抗する気力すら、とうの昔にすり減って消え失せている
「……あ……れ?」
怯えるようにうずくまる少女の顔をよく見ると、どこか見覚えのある面影があった。
「気づきましたか?」
ようやく、ヒマリが言葉を発した。
「あれは……あの子は、幼い頃の私です」
「……先輩の過去?」
「はい」
ヒマリは感情を殺した顔で、もう一度、目の前の凄惨な光景に目を向けた。
『金出せよ! 足りねぇんだよ! 使えねぇなぁ!』
男の怒声と、物が壁に叩きつけられる破壊音。
この理不尽な暴力をただ外から眺めていることしかできないハルトは、怒りと自身の無力さで胸がはち切れそうになる。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。
「助けたいですか?」
ヒマリの静かな問いかけに、ハルトは何か言葉を返そうとしたが、荒い息しか出てこなかった。
「私もできるなら、あの頃の私を、母を、助けたいです。でもそれは叶わない」
――だって、これは、既に終わってしまったものを映す、録画映像のようなものですから。
ヒマリはそう言って続けた。
「これ以上ここにいても、見れる映像は変わりません。毎日毎日、これの繰り返し」
――次に行きましょう。
ヒマリ先輩はそう言って、先に歩き出した。
ハルトもそれに従い、この吐き気のする部屋から出ようとしたところで、最後にもう一度だけ少女を見た。
少女は、何もない虚空を見上げているようにみえた。
いや、違う。その視線の先には、『誰か』がいた。
『誰か』は少女に手を差し伸べ、少女は『誰か』の手を握った。
甘く、優しい気配を纏った『誰か』は、絶望の底にいる少女にそっと手を差し伸べ、少女はすがるようにその手を握り返したのだ。
それは、確かに、『契約』が交わされた瞬間だった。
「何してるんですか? ハルト君。置いていきますよ」
「あ、ああ。ちょっと待ってください」
ハルトはそれを見届け、足早にヒマリを追いかけた。
『ヒマリ、あなたは特別な才がある。その力を人間のために、使いなさい』
『はい』
場面は変わり、厳かなステンドグラスから光が差し込む、教会のような場所に出た。
「これは……」
「あのあと父は、家庭内暴力と児童虐待の罪で警察に捕まりました。その後、母は緊急入院となり、残った私は、児童保護施設で一時保護されたあと、親戚に預けられる……その予定でした」
「実際は違うんですか?」
「ええ。児童保護施設にいたとき、私に尋ね人がいたんです」
ヒマリは、かつての自分の姿をまっすぐに見つめた。
「私がエクソシストの道を歩み始めたのは、それからです」
ハルトは何も返さなかった。
幼いヒマリは、背筋を伸ばし無表情で虚空を見つめていた。
それはまるで、ただ単に言われた仕事をこなすだけの人形のような瞳。
ハルトは、ヒマリ先輩を向いた。
「先輩は、今、楽しいですか?」
唐突なハルトの質問に、ヒマリは少しだけ目を丸くした。
「……さぁ。わかりません。楽しいという感情は、とうの昔に捨ててしまいましたから」
「じゃあ、僕とアサと過ごす時間は、楽しくない? 一緒にいたくない?」
まっすぐなハルトの瞳に見つめられ、ヒマリは言葉に詰まった。
やがて、彼女は少しだけ俯き、胸のあたりをそっと押さえた。
「……そんなことないです。一緒にいて、なんだかこう、温かいです」
「わかった」
ヒマリからの嘘偽りのない返事を受けて、ハルトは再び、感情を失った幼い少女の方を向いた。
そして、両手を口元に当ててメガホンを作り、空間そのものを震わせるような大声で叫んだ。
「ヒマリせんぱーい!」
「ちょ、ちょっとハルト君!? 何急に叫んでるんですか!?」
突然の奇行に慌てふためくヒマリをよそに、ハルトは叫び続ける。
「今のヒマリ先輩はー! とっても幸せだってー!」
ヒマリは、そこでハッとして息を呑んだ。
「だからー! 過去のヒマリ先輩も、頑張って生きてー! そしたら、絶対にいいことあるからー!」
「……ハルト君」
「ほら、ヒマリ先輩も叫んで。ここは僕と先輩の2人しかいない。いくら叫んだって、恥ずかしいことは何もないんだよ!」
「……ええ、そうですね」
彼女はそう言って、憑き物が落ちたような顔で、息を大きく胸いっぱいに吸い込んだ。
「私は今ー! 幸せだー! もっともっと幸せになってやるー!」
溜め込んでいた泥をすべて吐き出すような痛快な叫び声は、ハルトの耳にも十分に届いた。
静寂だった空間に二人の声がこだまし、やがて、ヒマリとハルトは互いの顔を見て、我慢しきれなくなったように大声で笑い合う。
『どうやら解決したみたいね』
不意に、どこか外の空間から、あたたかさを含んだ甘い声が響いた。
「うん。終わったよ、ラスト」
それを言うヒマリは、清々しい笑顔だった。
『そっか。……渡したいものがあるから、ハルト君と一緒に現実世界に帰っておいで』
「わかった!」
ヒマリはハルトの方へ向き直り、スッと右手を差し出した。
「行きましょう。ハルト君。私達の住む今へ」
「うん」
ハルトは力強く頷き、そのあたたかい手をしっかりと握り返した。




