36話 蒸し暑い夜
「もうすっかり夏ね。夜なのに蒸し暑いわ」
「それでも昼間よりは涼しくなったほうだと思う」
ハルトとアサは、夜が更けた大学のキャンパス内を二人並んで散歩していた。
昼間のうだるような熱気は引いたものの、風はべっとりと湿気を帯びており、肌にまとわりつくような不快感がある。
街灯の薄暗い光が、アスファルトの上に二人の影を長く伸ばしていた。
「……もう2ヶ月も前のことなのね」
不意に、アサが夜空を見上げながらぽつりとこぼした。
「何が?」
「ハルトくんと出会ってから」
「ああ。そういえば確かに」
ハルトは記憶の糸をたぐる。新宿駅のホームで、いきなり見知らぬ女子大生に腕を掴まれたあの日。
あそこから、彼の日常は大きく狂い始めた。
「なんだかいろいろありすぎて、はるか昔のように感じるわ」
「本当に。というか、時折思い出すけど、最初の学科オリエンテーションの時からだもんね」
「そうそう。あの時ハルトくんは、ずっと下を向いて何も喋らないんだもん。おまけに不思議なオーラを持ってるわけだから、あれで印象に残らないほうが無理あるでしょ」
アサは当時のハルトの様子を思い出したのか、くすくすと笑い声を漏らす。
「まあ……確かにあの時はそうか」
「それに、ハルト君ったら、私と出会った次の日には、もうヒマリに唾つけられてるんだから、油断も隙もない」
「いや~ヒマリ先輩マジで優しいなぁ。なにしろ、普通の大学生の女子は、新宿駅でばったり出会った同級生を捕まえて、首なんて絞めないんだから」
「もう一度首を絞めてあげようか?」
「申し訳ございませんでした浅野様」
ハルトの冗談に足を止めて振り返ったアサはニコニコと笑っているように見えたが、彼女のまとうオーラは全く笑っていなかった。
即座に降参のポーズをとるハルトに、アサは「ふん」と鼻を鳴らす。
「よろしい。それと、ハルト君」
「なんだ?」
「ヒマリは、正直私より首を絞めてくる可能性高いと思うわよ」
「ハハハ。そんなまさか。アサがヒマリ先輩の株を下げたいだけじゃないの?」
常に冷静沈着で、優等生の鑑のようなヒマリ先輩が、誰かの首を絞めるなんて想像もつかない。
「そんなわけないじゃない! いい、ハルト君。あいつはああ見えて、かなり腹黒女よ。ハルト君はまだそれを知らないだけ」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
「本当、誰が腹黒女なんですか? 浅野さん」
「え?」
「は?」
ハルトが適当に相槌を打ったその時、背後から、鼓膜を直接撫でるような、甘く、それでいて底冷えのする声が響いた。
ハルトとアサが振り返ると、そこにはいつの間にか出てきた月明かりに照らされている、ニッコニコのヒマリ先輩が立っていた。
「おや? そんなに驚かないでくださいよ。約束したでしょう? ここで会うって」
「ヒマリ……先輩?」
「……ハルト君、違うわ。あいつは……ヒマリじゃない」
一歩後ずさったハルトの前に、アサがさっと腕を出して庇うように立った。
彼女の横顔には、これまでにないほどの強い警戒心が張り付いている。
「流石に気づかれてるわよね……」
アサはキッと、ヒマリ先輩の姿をした『何か』を睨みつけた。
「あなたは、誰かしら?」
アサの鋭い問いかけに、ヒマリの皮を被った怪物は、くすくすと妖艶に笑った。
「こうして喋るのははじめましてかしらね。アサちゃん、ハルト君。私の名はラスト。そうねぇ、色欲を好む悪魔と言えば、伝わりやすいかしらぁ?」
「色欲……」
ハルトは声にならない声で呟く。
「そう。この子の中から、あなた達2人をずっと見ていた。この子と仲良くしてくれて、まずはお礼を言うわ」
ラストは、ドレスの裾をつまむようにして、芝居がかった優雅なお辞儀をして見せた。
「驚いたわ。まさか悪魔がお礼を言うなんて」
「ふふっ。だってそうでしょう。私がこの身体を手に入れるのに、あなた達二人はノイズになる。なら、この子のためにもお礼を言って殺しておくのが礼儀だと思うの」
殺す。その単語が発せられた瞬間、周囲の空気が一気に氷点下まで凍りついた。
「なるほどね」
交渉の余地など最初からない。
アサはそう吐き捨てるや否や、指先に強烈な光の粒子を収束させ、ラストへ向けて一直線に魔法攻撃を放った。
空気を切り裂く光の矢。
しかし、ラストは「ふふっ」と嘲笑うだけで、まるでワルツを踊るかのように軽やかなステップでそれを難なくかわした。
そして、彼女の視線が、アサの後ろにいる無防備なハルトへと向けられる。
ラストが、ゆっくりとハルトにむけて手を伸ばした。
「っッ!? ハルト君!?」
「遅い!」
次の瞬間、ハルトは反射的に、自分に向けられたラストの瞳を真正面から見てしまった。
覗き込んでしまったその瞳の奥には、底なしの甘い泥沼が広がっていた。
脳髄を直接かき混ぜられるような強烈な魔力が、ハルトの視神経から侵入し、意識を刈り取る。
「あ……」
抵抗する間もなかった。ハルトの視界が急速にブラックアウトし、全身の力が抜け、ばたりと冷たいアスファルトの上に崩れ落ちた。
「ハルト君! ちょっと! 魔眼になんてやられないでよ。しっかりして!」
アサが必死に駆け寄り、倒れたハルトの肩を揺さぶる。
しかしながら、ハルトには既にその声は届いておらず、深い昏睡の底へと沈み込んでいた。
「……」
必死に相棒を呼び覚まそうとするアサの後ろで、ラストは先ほどまでの笑顔を消し、まるで虫けらでも見るかのような冷徹な無表情で、二人を見下ろしていた。




