35話 月明りのないベンチで
夜が更けていくなか、ハルトとアサは大学のキャンパス内にあるベンチに座っている。
昼間の喧騒が嘘のように、キャンパスは静寂に包まれていた。
時折吹き抜ける生ぬるい夜風が、周囲の木々の葉をざわめかせる音だけがやけに大きく聞こえる。
「アサ」
「何かしら?」
「いくつか、質問していいか?」
ハルトは隣に座るアサの方を向かず、下を向いて自分の手を眺めた。ぎゅっと握りしめた両手には、じっとりと嫌な汗が滲んでいる。
アサはそんなハルトの横顔を、静かに、けれど射抜くような視線でじっと見ていた。
「……いいわよ」
アサはハルトの方を向かずに静かに答えた。
その目は、どこか虚空を眺めているようにも見える。
「さっき、ヒマリ先輩は昔から悪魔に取り憑かれてるって言ってたけど、それは一体いつからなんだ?」
「さぁ? ただ、私が初めてあいつに会ったときには、どこか不思議な気配を纏っていたわ。もっとも、あいつの中に悪魔がいるって気づいたのは、つい最近のことよ」
「つい最近って……」
「あいつのアドレスで、あいつじゃないやつから連絡が来たの。そこにはこう書いてあったわ。『あの子は私のものよ』って」
ハルトは息を呑んでゆっくりとアサの方を向いた。
その横顔は、先程から何も変わっていない。
「私のもの……」
アサは、ただじっと、いまだ雲に隠れる月を見上げている。
「そのメールには、微かに魔力が籠もっていたわ。まるで、軽く挨拶するかのように自己主張をしている魔力だった」
ハルトは目を伏せて、そうかとだけ言った。
それ以上、気の利いた言葉なんて出てこなかった。あの常に完璧で、圧倒的な強さを誇っていたヒマリ先輩が、得体の知れない何かに内側から所有されている。
その事実が重くのしかかる。
「で、これで質問は終わりからしら? まだ一つしか受けてないけど」
張り詰めた空気を切り裂くようなアサのあっけらかんとした言葉に、ハルトは、「あっ……」と、口を開けて間抜けな返事をしてしまった。
「あ、ああ。次の質問だ。エクソシスト達は、このことを知らないのか?」
アサはこの質問に対して、目をつむってゆっくりと首を横に振る。
「これも私にはわからない。本当に知らないのかもしれないし、知っていて時が来るまで放置してるのかもしれない。私は別に、内部の人間じゃないし」
「そっか……」
正直、ハルトはこの質問にアサが明確な答えを出せないだろうと、心のどこかでわかっていた。
だけど、どうしてかハルトは、アサにこの質問をしてしまった。
それは、自分が足を踏み入れてしまった狂気の世界について、少しでも情報が欲しかったからなのかもしれない。
あるいは、悪魔討伐のプロである『ヒマリ先輩の仲間たち』が助けに来てくれるのではないかという、ひどく甘くて淡い期待を抱いていたからかもしれない。
しかしどうやら、ハルトがこの質問をした意味は、あったようである。
アサは、暗闇が広がる地面を睨みつけながら、言葉を続ける。
それはまるで、どこにも行き場がない迷路のようなものが無限に広がっているかのような暗闇だった。
「だから、この戦いにエクソシスト達がやってくるのかどうかもわからない。まあ、町中での戦闘になるから、どっちみち緊急出動はするでしょうけど。……すぐに助けはやってこないでしょうね」
すぐに助けはやってこない。
ハルトはその言葉を、今の時点ではそこまで重大にはとらえていなかった。
いくら悪魔がとり憑いているとはいえ、相手はあのヒマリ先輩である。
彼女の意識が少しでも残っていれば、きっと自分達相手なら手加減してくれるのではないか。
そんな淡い期待が無意識のうちに、彼の中には存在していた。
「じゃあ僕からは、次で最後だ。どうして、ヒマリ先輩……の中にいる悪魔と、今日ここで戦うことになってるんだ?」
「ああ、それね。さっき、あいつが忘れ物をするって言って事務所に戻って言ったでしょ? あの時点で、既にあいつの意識は例の悪魔に乗っ取られていたの」
「乗っ取られてた? え? そしたら、撮影中は?」
「私達がスタジオから出た時点では、あいつの身体はあいつが制御していた。ほんの一瞬の間に、悪魔はあいつの意識を強制的に乗っ取ったの」
「……それで」
「で、あいつを乗っ取った悪魔が別れ際に私に魔眼でメッセージを送ってきたわ。『今日の夜更けに学び舎で全員殺してあげる』、そんなメッセージだったわ」
「こ、殺すだって!? なら戦闘はエクソシスト達に任せて、ここから逃げないとダメじゃないか!」
思わずベンチから腰を浮かせそうになったハルトを、アサは冷めた声で制止した。
「無駄よ。逃げたところで、私達の気配を追って奴はやってくるわ。ここでお互い単独行動をするのはベストな選択肢ではないの」
「え……そしたら、もしあの時僕が置いていかれたら……」
「悪魔は約束を守るわ。まずここにやってきて、私を殺すでしょうね。ハルト君はその次よ」
あっさりと告げられた残酷な順番に、ハルトの顔からサァッと血の気が引いた。
「それこそ、エクソシストに通報は?」
「そんなものはないわ。警察や消防とは違って、エクソシスト達への通報手段は存在しない。彼らは独自の調査網で、監視と討伐をおこなってるの」
「そんな……。どうして……」
「110番って、誰でも気軽に電話できる分、いたずら電話も多いの。エクソシスト達に、そこまでの対応をする余裕はないわ。おかしな話でしょ? パラレルワールドからの脅威を排除するのが彼らの仕事なのに、それを仲間であるはずの何も知らない人間達に邪魔されるだなんて」
「だから、緊急出動を待つしかないと……」
「そうね」
ハルトは月を見上げた。
相変わらず月は雲の後ろに隠れている。
キャンパス内の灯りは少しずつ、ポツリポツリと消え始めていた。
「次は、私から質問していいかしら?」
唐突に、アサの口調から先程までのシリアスな響きが消え、どこかイタズラっぽい色が混じった。
「えっ? アサから質問? まあ、いいけど」
アサは身体をハルトの方へ向け、顔を下から覗き込んでくる。
「本当? じゃあ……」
ハルト君、今家に家族以外の人間が住んでないかしら?
「えっ!?」
「……図星ね」
アサはため息を吐いた。
「ご、誤解だよ。いや確かに住んでるのは誤解でもなんでもなく事実なんだけど、そうじゃなくて、別に怪しい関係でもないというか……」
「何をそんなに動揺してるのかしら?」
「えっ?」
「私、まだ何も言ってないわよ」
「あっ……」
見事に誘導尋問に引っかかったことに気づき、ハルトは口をぱくぱくとさせた。
すると、張り詰めていた空気をぶち壊すように、アサは「ブフォ」っと吹き出して笑い出した。
どうやら、ハルトの面白いくらいの焦り具合がツボにハマったらしい。
「アッハッハッハ! やっぱり面白いわね、ハルト君。でもね……」
彼女が涙目を拭いながら何かを言いかけた、その時だった。
ブブブブッ、ブブブブッ。
ハルトのズボンのポケットが、空気を読まずに無機質な振動を始めた。
「あっ、ごめん。アサ。電話」
「……いいわよ。出て」
アサは何故か不機嫌そうにほおを膨らませていた。
なんだかとても申し訳ない。
スマホを開くと、どうやら自宅からかかってきてるようだった。
「もしもし。ハルトです」
『ハルト様、アオイです。ただいまお時間よろしいでしょうか?』
「えっ!? あっ、アオイ!?」
ハルトは、勢いよくアサの顔を見た。
アサはニヤニヤと笑っている。
「あー、まあいいよ。何のよう?」
『先程、ハルト様から、今日はお帰りになられないとの連絡がございましたので、どのような事情があるのかと連絡した次第でございます』
「え? いや、それは友達とカラオケに行ってるんだよ。今日はオールで歌うって決めてるんだ」
『本当に、そうですか?』
スピーカー越しに聞こえるアオイの声は、相変わらず感情の読めない無機質なものだ。
だが、その平坦な響きの中に、明らかに『疑い』の刃が隠されているのがハルトにはわかった。
「本当だよ。明日の朝には帰ると母に伝えておいてくれ」
『かしこまりました。くれぐれもお気をつけください』
通話が切れ、ハルトはどっと疲労を感じながら「ふぅ……」と長い息を吐いた。
「さっきの続きなんだけど」
「うおっ!?」
横から不意に耳元で囁かれ、ハルトはビクッと肩を跳ねさせた。
「何よ。急に驚かないでくれる?」
「それはこっちのセリフだ! 急に驚かさないでくれ! ……それで」
「さっきの相手、アオイって言うんだ?」
「なんだよ。嫉妬か?」
「別に〜」
アサはツンとそっぽを向いた。
あ〜でも、と、彼女は少しだけ真面目なトーンに戻る。
「その子、少し怪しいわ。ハルト君が思ってる以上に気をつけたほうがいいと思う」
「なんだ? それは幸運の魔法使いの予感か?」
「幸運というより、確率の魔法使いとしての予感ね」
「なんだよそれ」
不穏な警告をぼやかして笑うハルトを見て、アサは小さく肩をすくめた。
そして、ベンチからすっと立ち上がると、ぐっと大きく背伸びをした。
「ねぇ。それよりも身体を動かさないかしら?」
「はぁ?」
「何よその反応。いいじゃない。少し身体動かしたくなったの! ちょっと付き合って」
気づけば少し空が晴れ、月明かりが彼女を照らすようになった。
月明かりに照らされたアサは、ハルトに向かってニコッと笑いかけた。
その姿を見せられたハルトは、ため息を一つこぼすと、諦めたようにベンチから腰を上げた。
「まぁ、わかったよ」




