34話 重い荷物を持って
ヒマリが撮影所に忘れ物をしたと言って別れてから数分後。
ハルトとアサは、帰路につくための駅のコンコースにいた。
家路を急ぐ人々の足音が雑踏となって響く中、隣を歩いていたアサがふいに足を止めた。
「ハルトくん」
アサがハルトの名前を呼んだのは、二人が改札を抜けてそれぞれのホームへと解散する、ほんの直前のことだった。
いつもなら「じゃあね」とあっけなく手を振る彼女にしては、あまりに突然で、どこか硬い響きを持った声だった。
「アサ、どうしたんだ? そんな深刻な顔をして」
振り返ったハルトの問いかけに、アサは一瞬だけ下を向いて言い淀んだ。しかし、すぐに意を決したように顔を上げ、まっすぐハルトの目を見た。
その瞳には、いつものような無邪気な光はなく、張り詰めた緊張感が宿っている。
「ちょっと、今晩手伝ってほしいことがあるの」
ハルトは怪訝な顔をした。
アサから突拍子もない無茶振りを要求されるのはいつものことだ。
しかし、今回ばかりは「何かがおかしい」と、ハルトの本能が警鐘を鳴らしていた。
第一、今日は悪魔であるマモンとのイレギュラーなコラボ撮影の後だ。
気を張っていたせいで、お互いに心身ともに疲労困憊しているのは周知の事実である。
ましてやハルトは、先ほどの撮影を通して、自分や亡き叔父に纏わる非常に重要な情報を聞いたばかりだ。
一人になって、頭の中を整理する時間を彼は欲していたのだ。
にも関わらず、アサはわざわざハルトを引き留め、「今晩手伝ってほしいことがある」と言った。
それすなわち、後回しにできないほどの緊急性を持った事象が起きているということに他ならない。
「手伝ってほしいこと?」
ハルトは、気付かない振りをして聞きかえした。
アサは、深刻な表情を崩さない。
「ええ、とりあえず今夜は泊まりになるわ。親御さんに連絡してくれると助かるのだけど」
「ちょちょちょ! 待って」
いくらなんでも唐突すぎる提案に、ハルトは思わず両手を出してアサの言葉を制止した。
アサはピクリと眉を動かし、一瞬だけ目を見開く。
「何よ」
返ってきたのは、いつもみたいに唇を尖らせた子供っぽい反発ではなく、ひどく刺々しい声だった。まるで、自らの中に渦巻く焦りや苛立ちを無理やりぶつけるかのようなトーン。
ハルトはそれに一瞬怯んだが、深呼吸をしてすぐに落ち着きを取り戻した。
「残るのは構わないから、先に状況を説明してほしい。一体どんな事情があって、どんなことを僕にしてほしいのかを教えてくれよ」
そう、これは重要なことだ。
何がどうなってアサがハルトに緊急性が高いと思われる頼み事をするのか、その内容がなにか。
わからなければ先に進めない。
それがわからなければ、おいそれと首を縦には振れない。
危険な事態に巻き込まれるのなら、なおさら現状把握が必要だ。
ハルトは極めて論理的で正当な要求をしたつもりだった。
だが、その考えはどうやら、今のアサにとっては正解ではなかったようだ。
「……ああ。気づいてなかったのね」
何かに驚いたような表情をした後に返ってきたアサの声は、酷く冷え切っていたからだ。
「は?」
今自分の口から出てきた圧力的な返事で、ハルトは、無意識に自分の中にふつふつと怒りが湧き出ていることに気がついた。
疲れていることが原因の一つかもしれない。
けど、それだけではないなと、ハルトは自分に対して結論づけた。
理由も告げずにただ従うことだけを求められ、挙句に見損なったような目を向けられたことへの理不尽さが、ハルトの感情を逆撫でしていた。
「……ならしょうがないわね。帰っていいわ。どっちみち役に立たないし」
アサは吐き捨てるようにそう言って、くるりと背を向けた。
そのまま一切の未練を見せずに、ホームへと続く階段の方へ歩き始める。
雑踏の中に消えていこうとする彼女の小さな背中を見た瞬間、ハルトの中で何かが弾けた。
堪忍袋の緒が切れたかのように地を蹴り、すぐさま駆け出して、アサの右腕をガシッと力強く掴んだ。
「おいちょっと待ってくれよ! そこまで話してやっぱり何もありませんでしたは酷くないか?」
アサは、ハルトの声をしっかりと聞く気はもうないようだった。
その理由すらも、ハルトはわからない。
ただ、彼女は何かに対して怒っている。
それだけは理解できる。
「離して」
アサは振り返らず、静かにハルトを拒絶する。
ハルトも負けじとアサの右腕をつかみ続ける。
「やだ」
ハルトは、アサの右腕を掴む自分の右手に、力が入っていくのを感じた。
「離してって言ってるの」
ようやく振り返ったアサの瞳と、ハルトの視線が真正面からぶつかり合う。
周囲を行き交う人々の波に取り残されたように、二人の間だけで火花が散る。
「いやだ」
「どうして? どうして私を引き留めるの?」
どうして?
そんなもの、決まってるじゃないか?
気づかない方がおかしいんだ。
「アサが、何か大事なものを一人で抱え込んでいるように見えるからだ」
アサの目が大きく開いた。
「なぁ、僕達まだ2カ月やそこらの付き合いだけど、ここまで一緒にやってきたじゃん。荷物が重いなら、僕も半分持つよ」
ハルトはまっすぐアサを見つめる。
アサの瞳が少しだけ揺れたように見えた。
「……言ったら、ハルトくんは止まらないと思ったから言わなかった」
アサは何かを後悔するかのように、ぽつりとこぼし、すっと下を向いて俯いた。
その小さな肩は、見えない重圧に耐えかねているように見えた。
「うん」
ハルトの静かで小さな返事が、駅のコンコースで反響したように聞こえた。
人がいっぱいいるのに、世界には二人しかいないような感じもする。
アサは、顔をあげてハルトの顔をじっと見つめた。
「……今から言う言葉を聞いてしまったら、後戻りはできないわ。それでもいいのなら、ついてきなさい」
アサはそう言って、ハルトの返事を聞かずに歩き出した。
一瞬だけフリーズしたハルトは、大急ぎでアサの足跡を追う。
「ちょっと、どこに行くんだ?」
「大学よ」
「大学行くなら、反対のホームだぞ」
アサが足を止めたのは、ホームに上がる階段に足をかける寸前のことだった。
「えっ……? あっ……」
途端に気まずそうな顔をして固まるアサ。
そういえば、この子はとんでもない方向音痴だったな。
張り詰めていた空気が一気に抜け、ハルトは思わず「フッ」と笑いをこらえた。
電車の中では、先ほどの言い合いが嘘のようにお互い無言で過ごした。
電車の揺れる規則的な音だけが、二人の間の空間を埋めている。
やがて駅を降り、夜道を歩き、気づけば二人は大学の広大な緑地帯にいた。
夏場とはいえ、あたりはすっかり日が沈んでいる。昼間は学生たちで賑わうキャンパスも、今は虫の音だけが響く静寂に包まれていた。
アサは陽が沈んだ後の遠い空を、目を細めて見上げた。
「端的に言うわ。私達はこれから、悪魔と戦うことになる」
ハルトつられて空を見上げる。
空は月明り一つすらない、漆黒の闇に覆われていた。
まだ大学の建物の電気が点灯しているために周囲は明るいが、これから夜が更けていくにつれ、大学から人影が消えていくのだろう。
「……悪魔? エンヴィーやマモンみたいな奴らのことか?」
ハルトは、なぜ? といわんばかりの口調で、アサに聞き返した。
「そうよ。今回も、人間の心に住みつく個体との対決になるわ」
正直、ここに来た時点でなんとなく予想はしていた。
今までハルトは二回、悪魔と出会ってきたが、思い返してみれば、先ほどのアサの表情は、彼らと対峙したときのものだったからだ。
「人間の心に住み着く個体……ナルトchのときみたいな感じか?」
「ええ。しかも今回、相手はかなり力をつけてる。私達二人で太刀打ちできるかどうか……」
アサは下を向いて首を振る。
ハルトはふと疑問が頭に浮かんだ。
「一つ思ったんだけど、それってエクソシストの仕事じゃないのか? 僕はともかく、アサだって名義上は一般人じゃないか。わざわざそんな危ないことをしなくても……」
「その相手がヒマリだったとしても?」
ハルトは耳を疑った。
今、何て言った?
ハルトはできるだけ冷静になってから、言葉を返した。
「ヒマリ先輩に、悪魔が取り憑いてるってこと?」
「そうよ。それも、ずっと昔から」
ずっと昔……昔っていつのことなのだろう。
いやそれよりも、ヒマリ先輩に悪魔がとり憑いてる?
よくわからない。
だって、それが本当なら、ハルト自身が気づけたはず。
そう思ったところで、ハルトは息をのんだ。
「まさか、さっき気づかなかったの? って聞いたのは……」
アサはフッと息を吐いた。
その表情は、先ほどから何も変化していない。
「あれは……単純にハルト君の能力を試しただけよ。今回の個体は、周囲の人間に気づかれないように擬態工作を徹底している。それを見破れるだけの実力が本当は欲しかったのだけど、まあこの際どうでもいいわ」
「嘘つけ。置いていこうとしてたじゃないか。」
「それはそうよ。いい? 今回だって遊びじゃないの。もしかしたら誰かの命が失われるかもしれない危険な戦い。それに耐えられるだけの実力と覚悟が、悪魔との戦闘には必要なの」
「まあ……うん、確かにそうだ」
反論の余地がない正論に、ハルトがぐうの音も出ずに項垂れたのを確認して、アサは強張っていた顔を緩めた。
今日初めて、ようやくハルトに向かってにっこりと笑いかけたのだ。
「……事前説明はこれくらいでいいかしら? あとは、日付が変わる時間まで自由にしてていいわよ」
緊張の糸が切れたようにそう言われ、ハルトはポケットから自分のスマホを取り出し、電源を入れて現在時間を確認してみた。
画面に表示された数字を見て、思わず素っ頓狂な声が出る。
「日付が変わる時間……ってあと5時間もあるぞ!?」
「ええ。悪魔は基本的に、人気のあるところで戦闘はしないわ。人間が仲間を呼ぶリスクがあるからよ。自分の身を滅ぼすような真似はわざわざしない。この時間帯は、大学にまだ人がかなり残ってるわ。彼らが帰るか、寝静まる時間まで、賢い悪魔なら来ないはずよ。早くて、22時30分くらいでしょうね」
ハルトは「はぁ⁉ そんなに待つのか⁉」と一瞬だけ文句を言いそうになったが、彼女の毅然とした態度にすぐに諦めて、降参するように両手をあげた。
「……わかった。その時間まで待ってる」
そして、ハルトは迷うことなく、ぽつんと置かれたベンチに座るアサの、すぐ隣に腰を下ろした。
「……ちょっと、なんで隣座るのよ?」
どうやら、お嬢様はまだ少しご機嫌斜めらしい。
夜の闇に紛れて、彼女の顔が少しばかり赤くなっているように見えるのは、おそらく疲れが見せた幻覚だろう。
「え? ダメだった?」
「ダメ……ではないけど……」
アサは気まずそうに視線を泳がせ、困っている。
本当はこれから命がけの戦いを控える相棒を困らすなんてダメなことだと思うけど、今はなんとなく、彼女を少しだけ困らせたいと思ってしまった。
ハルト自身も少し疲れて、心が幼児化しているのかもしれない。
「とにかく、僕はここで休んでる。アサはどうする?」
「……私もここで休むわ」
アサも観念したかのように小さくため息をつき、静かにベンチの背もたれに身体を預けた。
夜風が二人の間を通り抜けていく。戦いが始まるその時まで、静寂だけが彼らを包み込んでいた。




