30話 勘づいた者達
目覚ましの音が聞こえる。
外からは雀が鳴く声がする。
枕元の時計に目をやると、現在時刻は朝の6時半。
都内の朝の通勤電車は、人の多さでよく遅延する。まだ7時前とはいえ、大学の1限目に間に合わせるためには、そろそろ起きて支度を始めなければならない。
ハルトは重い瞼を擦りながら目覚ましを止め、サイドテーブルに置いたメガネをかけた。
そして、のそりとベッドから降りようと顔を上げた瞬間――。
「おはようございます、ハルト様」
「……うおっ!? ああ……おはよう、アオイ」
なぜかハルト専属の使用人として秋津家に下宿しているアオイが、ベッドのすぐ脇に直立不動で立っていた。
正直、この「朝起きたら美少女の使用人が見下ろしてきている」という奇妙な光景も、2週間近く目にすればそれなりに慣れてくる。
ただ、昨夜の玄関での気まずいやり取りがあったためか、一瞬心臓が跳ね上がり、ドギマギしてしまった。
「朝食のご用意ができております。着替えの後に、居間へお越しくださいませ」
「うん……。ありがとう」
ハルトがお礼を言っても、アオイの表情はピクリとも動かない。目はいつも通り深海のように無表情なはずなのに、今日はどこかジトッとした、粘りつくようなものを感じた。
まるで、ハルトの心の奥底をじっくりと探っているみたいだ。
起床して数分しか経っていないというのに、ひどく居心地が悪い。
「ところで、ハルト様。起床後すぐで申し訳ないのですが、1つ質問してもよろしいですか?」
アオイが朝から個人的な質問をしてくるなんて珍しい。ハルトはそう思いながらも、この時は特に何も気にせずパジャマのボタンを外しかけていた。
「いいよ。何?」
「率直に申し上げます。ハルト様――YouTubeを運営しておられますよね?」
「……えっ?」
YouTube。
アオイの口から飛び出したその単語に、ハルトは急に頭から氷水を浴びせられたように、グワッと完璧に目が覚めた。
「いや? やってないよ。どうしてそんなこと聞くの?」
「そうですか。わかりました」
あっさりと引き下がったものの、アオイの瞳には明確な疑念が渦巻いているように見えた。
なぜ、アオイがYouTubeのことを聞いてきたのか。
そもそもなぜアオイがハルトのYouTubeを知ってるのか?
ただの勘なのか……いや、あの言い方は絶対に何か確証を掴んでいる言い方だ。
ここで下手な肯定や言い訳をするのは、逆に危ないかもしれない。
ハルトは背中に冷や汗をかきながら、そんなことを頭の中でぐるぐると考え続け……アオイが朝早く起きて作ってくれた美味しいはずの朝食を、全く味を感じないままもぐもぐと胃に流し込んだ。
その日の夕方。
大学の講義を終えたハルトは、ヒマリ先輩との「魔法特訓」に臨んでいた。
「……特訓を始めてから2週間以上、なかなかサマになっているじゃないですか」
ヒマリは、地下施設の訓練部屋の中央に立つハルトを見ながら、静かな声で言った。
天井の蛍光灯が、無機質なコンクリートの壁を白々と照らしている。
床には、複雑な幾何学模様が描かれた魔法陣がチョークで刻まれていた。
これは初心者のハルトが魔法を発動しやすくなるように、ヒマリが訓練用に整備してくれた補助輪のようなものだ。
ハルトの目の前には、手のひらサイズの小石が一個、空中にふらふらと浮いていた。
「……揺れてる。すっげぇ揺れてるけど、浮いてる!」
ハルトは額に玉のような汗を滲ませ、空中の小石を鋭く睨みつけた。
指先に神経を集中させ、「気の流れを意識する」というヒマリの教えを必死に実践している。
「合格点です。先週まで一ミリも浮かせられなかったことを考えれば、上出来ですよ」
「それほど……ぐ……ッ」
ぼとり。
集中力が切れた瞬間、石が虚しく床に落ちた。
ハルトは糸が切れたように、その場にへたり込んだ。
「……疲れたぁ」
「お疲れ様です。魔法の初歩は、筋力や体力ではなく、魔法のイメージを『いかに正確に脳内に描き出すか』の問題です。ハルト君は多分、あの小石を『自分の力で浮かせるもの』と考えているんだと思います。そうではなく、あの小石は『最初から浮いているもの』と考えてみてください。そうすれば、今よりもずっと力を抜いて、自然に魔法を発動できるはずです」
ヒマリは優しく微笑み、息を切らしてへたり込むハルトに、冷たいスポーツドリンクの入ったペットボトルを手渡した。
「なるほど……。でも先輩、それ、もっと早く言ってほしかったですよ」
「あえて言わなかったんです。最初は『自分の力で浮かせるもの』として捉えたほうが、現実の物理法則とリンクさせやすくて、魔法の発動自体は簡単になりますから。一度『浮いている小石』のビジョンを目に焼き付ければ、あとは『最初から浮いているもの』と考えることで、非現実だった現象を脳内で一般化するんです」
「なるほど……。よく分からないけど、わかったような気がします」
「ふふ、それなら良かったです」
ハルトは冷たい床に座ったまま、ペットボトルのスポーツドリンクを口に含んだ。
甘さと塩分が、疲労した脳に染み渡っていく。
「ヒマリ先輩。一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「先輩は……エクソシストとして、これまでで一番大変だったことってなんですか?」
ヒマリは少し間を置いた後、壁際の椅子に腰を下ろした。
「……大変なこと、ですか。そうですね……」
ヒマリは一瞬だけ目を瞬かせ、少し間を置いた後、壁際のパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「……大変なこと、ですか。そうですね……」
彼女の視線が、ハルトから外れ、床の魔法陣の一点に落ちる。
「一番大変なのは、『日常を演じること』かもしれません」
「日常を?」
「私たちエクソシストは、素性を隠して社会に溶け込んでいます。友人に対しても、後ろめたいことばかりです。ハルト君のように、誰かに本当のことを話すことは、本来であれば禁じられているんです」
「でも、先輩は僕に話してくれた。あの時、チラシの魔法を解除できなかった僕に対して」
「そうですね。あなたへのエクソシストの説明は、既にアサがやってくれていましたし……。それに、私自身が、ハルト君になら話しても大丈夫だと思ったんです」
ヒマリは静かに微笑んだが、その笑みはどこか透き通りすぎていた。
「……あの、ヒマリ先輩」
「なんですか?」
「その……大丈夫ですか」
核心を突く言葉を持たないハルトの不器用な問いかけに、ヒマリの手が、一瞬だけピタリと止まった。
「……何のことでしょう?」
「……いえ、なんでもないです」
ハルトはそれ以上踏み込むことはせず、膝を叩いて立ち上がった。
「よし! 『最初から浮いているもの』のイメージですね! 練習頑張るぞ!」
ハルトは足元の小石を拾い上げ、明るく振る舞って訓練を再開しようとする。
ヒマリはしばらく、ハルトの無防備な背中をじっと見つめていたが、やがていつもの冷静な声で小さく呟いた。
「……やはり、あなたは変な人ですね、ハルト君。鉄道以外のことにも、変なところで勘が鋭いんですから」
ハルトは手元の石を見つめ、もう一度深く息を吐いて集中した。
ふわり。
今度は先ほどよりも揺れが少なく、安定して石が宙に浮いた。
「……少し、上達しましたね」
背後から聞こえたヒマリの声は、地下室の冷たい空気の中で、いつもより少しだけ柔らかく響いた。




