29話 かくしごと
ネオンの光が冷たくアスファルトを照らし、街は徐々に深い夜へと沈んでいく。
ハルトとアサに別れを告げ、一人家路についたヒマリは、静寂に包まれた自宅の玄関ドアを静かに閉めた。
一人暮らし用のワンルームの灯りを付け、彼女は手慣れた動作で仕事着――漆黒の戦闘用シスター服へと着替える。
鏡に映るその表情は、ひたすらに平坦だった。「無」という表現が、今の彼女には一番しっくりくるのかもしれない。
ヒマリが一人の部屋で過ごす時、テレビを見て笑うことも、漫画を読んで感動することもない。誰に聞かせるわけでもない独り言を呟くこともなければ、同年代の少女のように誰かとの恋を妄想して頬を染めるようなこともない。
彼女の奥底にあるのはただ、『戦闘兵』としての空虚な暗闇だけだった。
「ふふっ……」
だけど、今日の彼女は違う。
今日の出来事を思い出して、小さく、何かをこらえるように笑っていた。
それにはヒマリ自身が一番驚いている。
楽しかったのだ。
ハルトのYouTuberとしての撮影のためとはいえ、アサの家業としての出張のためとはいえ、三人で旅行したことが楽しかったのだ。
そこに理屈なんてない。
ただ、あの今日過ごした時間がずっと続けばいいのにと、一瞬でも思ってしまう。
それが今の藤宮ヒマリだった。
最近は、このようなことばかりである。
「うっ……」
自分を奪おうとする頭の痛みと共に、ヒマリは幸せを感じていたのだ。
「……出てくるな」
ヒマリは、一人で壁にもたれかかり、荒い息を吐きながら低く呟いた。
その痛みは、きっと誰にも想像できないだろう。
しばらくして、痛みの波が引いていくと、ヒマリの顔からは再び一切の感情が抜け落ちた。
完全に無表情に戻った彼女は、一切の躊躇いなく、危険が潜む夜の街へと繰り出していった。
同じ頃、ハルトは重い足取りで自宅の前に辿り着いていた。
ここ最近の彼は、自分に与えられる情報量が多すぎて、頭の処理能力が完全にパンク気味だ。
魔法の存在、不思議な魔道具、そしてヒマリやアオイといった謎多き人物たち。
それに加えて、毎週のように課される大学のレポート課題を片付け、さらにはYouTubeの企画から動画編集までをほぼ一人でこなしているのだ。
大学に入学したばかりのハルトにとって、今の状態は少々オーバーワーク気味である。
「……これでバイトしていたら大変なことになってたなぁ」
ハルトの疲労感たっぷりの呟きは、夜の冷たい街の中へ虚しく消えていく。
実際のところ、秋津家は経済的にかなり恵まれた「太い家」である。
そのため、ハルトが身を粉にしてバイトをしなくても、私立大学の高い学費を払ってもらった上で、十分すぎるほどのお小遣いをもらうことができていた。
「まあそれも、僕に兄弟がいないおかげかな」
ハルトは玄関のドアノブに手を掛ける前、ふと夜空を見上げた。
月がもしかしたら見えるかもしれないと、訳もなく思ったからだ。
しかし、今日の月は分厚い雲にすっぽりと隠されてしまっており、朧げな光すら地上に落としてはいなかった。
「ただいま〜」
ガチャリと扉が開いた瞬間、玄関の灯りは自動でつくようになっている。
そこには本来、この時間は誰もいないはずだった。
「おかえりなさいませ、ハルト様」
「うおっ!?」
ハルトは思わず飛び上がってしまったのには、もちろん理由がある。
そこには、三つ指をつくような姿勢で律儀にハルトの帰りを待つ、アオイの姿があった。
最初に出会ったときは「さん」付けだった呼び方が、いつの間にか堂々たる「様」付けに変化している。
「あ、アオイ。こんな時間まで待っていたのか?」
「はい。それが、私がこの家にいる条件ですので」
アオイが秋津家に下宿する条件。
それは、秋津家の使用人として働くことだった。
これは彼女の父親であり、栗島家の当主である栗島アキラが強引に提案してきた条件だ。
当然、父も母も「親戚の娘さんにそんな真似はさせられない」と全力で断ったのだが、「では、ハルト君専属の使用人というのはどうでしょうか?」とアキラが食い下がった際、母のほうが少し隙を見せてしまい、そのまま言葉巧みに押し切られてしまったらしい。
そして、その決定的な事実をハルトが知らされたのは、アオイがこの家に引っ越して来た当日のお昼ご飯の最中であった。
事後報告を受けたハルトには、もはやどうすることもできなかったのだ。
まあそれもこれも、普段のハルトの生活態度がズボラでダラシないからこそ、母も「お目付け役」として妥協してしまったのだろうが……。
「な、なんか、申し訳ないな。次は早く帰ってくるようにするよ」
「いえ、ハルト様は大学生なのですから、お付き合いなどで夜遅くにお帰りになることもありえると思います。私のことは使用人として、気になさらなくて大丈夫です」
(いや、2週間ほぼ毎日玄関の扉開けて、自分の使用人がいたらこっちが気にするわ!)
ハルトは内心で盛大にツッコミを入れながら、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「それにしても、ハルト様。本日はどちらへいらしていたのですか?」
「え? ああ、友達と鉄道旅行に行ってたんだ。宇都宮っていう場所なんだけど……」
「そうですか。ハルト様が大学生活を存分に満喫されているようで、なによりです」
アオイは丁寧な言葉を口にしながらも、深海のように底知れない無表情の瞳で、じっとハルトの顔を見つめてくる。
そこには一切の感情が読み取れず、まるで嘘をついていないか尋問されているような圧迫感があった。
ハルトは冷や汗をかきながら思う。
(この人は、本当に僕と同い年の大学1年生なのだろうか……?)
「と、とりあえずもう寝るから。アオイも自分の部屋に戻っていいよ!」
半ば逃げ出すような早口で告げ、階段の方へと背を向ける。
「……わかりました」
背後から返ってきたのは、相変わらず感情の読めない平坦な声だった。
振り返らなくても、薄暗い玄関で彼女が静かに、そして深々と一礼しているのが気配でわかる。
ハルトは自室へと続く階段を逃げ込むように駆け上がりながら、前途多難すぎるこの奇妙な同居生活に、心の中で深々とため息をつくのだった。




