26話 ついてこないで
土樽駅での死闘から数週間が経過した。
季節は春の柔らかな日差しを通り越し、初夏の汗ばむような空気がキャンパスを包み始めている。
窓の外では新緑が風に揺れ、本来ならば穏やかな時間が流れているはずだった。
アサの魔力枯渇による深い眠りもようやく明け、今日は彼女の復帰後初となる動画撮影の打ち合わせ日だ。
しかし、大学のカフェテリアの片隅――彼らが囲むテーブルに流れる空気は、初夏の爽やかさとは程遠かった。
まるでシベリアの寒気のような、肌を刺す冷たさに支配されていたのである。
「……で、これはどういうことかしら? ハルト君?」
テーブルを挟んで座るアサが、額に青筋を浮かべながら地を這うような低い声を出した。
彼女の鋭い視線の先には、気まずそうに目を泳がせるハルトと、その隣で一点の曇りもない「優等生の仮面」を被って優雅に座るヒマリ先輩の姿がある。
「大変申し訳ないです……」
ハルトは、まるで無賃乗車が見つかった旅客のように身を縮め、冷え切ったセルフサービスの水をストローで啜った。
氷のカラカラという音だけが、やけに大きく響く。
「どうしてそんなにお怒りなんですか、アサさん?」
対照的に、ヒマリは余裕の笑みを浮かべて眼鏡のブリッジを押し上げた。
その落ち着き払った態度が、目の前でくすぶる火にガソリンを注ぐ結果となっていることに、聡明な彼女が気づかないはずもないのだが。
「その名前で呼ばないでほしいんだけど、ヒマリ先輩」
アサとヒマリの視線が交差した瞬間、バチッと目に見えない火花が散った。
カフェテリアの喧騒すら遠のくほどの緊張感の中、アサは再びハルトをキッと睨みつけた。
「 ハルト君、どういうことか早く説明してくれないかしら!?」
アサの怒声に、周囲の学生たちが「なんだなんだ?」とこちらを伺い始める。
針のむしろに座らされた気分のハルトは、一度深く深呼吸をし、意を決してプレゼンを開始した。
「アサ、聞いてくれ。これは、僕たちのチャンネルを伸ばすためには必要なことなんだ」
「は?」
絶対零度の冷気を含んだアサの相槌に背筋を凍らせながらも、ハルトは必死に言葉を紡ぐ。
「いいか、アサ。今の時代、動画投稿サイトで女性がキャストとして登場する鉄道旅行系ユーチューバーは需要の割に供給が少ない。……そこに、ヒマリ先輩という強力なキャラクターが加われば、確実に爆伸びするんだよ」
先日、地下施設でヒマリに語った持論を、ハルトはもう一度アサに叩きつけた。しかし、アサの反応は銀次の「鉄オタ的計算」を遥かに超える拒絶だった。
「意味が分からないわ。私っていう動画のヒロインがいながら、もう一人女性を入れるなんて……。しかも、よりによって私がこの世で一番大嫌いな人間じゃない」
アサの言葉は、単なるライバル心というより、生理的な拒絶に近い響きを持っていた。
ハルトはそこで、ようやく気が付いた。
自分が行った提案が、この二人の間に存在するであろう深い因縁の溝を、あまりにも軽視していたことに。
「……」
ハルトが言葉に詰まり、何も言い返せないでいると、アサは椅子の足をガタンとけたたましく鳴らして立ち上がった。
「まあいいわ。これで私とあなたの契約は解除ね。次回の動画からはそこの綺麗な先輩と一緒に楽しい動画を撮影するといいんじゃないかしら?」
突き放すような冷たい言葉を残し、アサは振り返る。
そのまま、カフェテリアの出口に向かってスタスタと歩き出した。
「ま、待って!」
「ついてこないでくれるかしら? もうあなたと顔を合わせたくないの」
その背中には、いつもの強引な明るさは微塵もない。
ハルトは、まるで最終列車を見送ってしまった後の無人駅に立たされたような、強烈な喪失感に襲われて立ちすくんでしまった。
「ハルト君。今すぐ追いかけなくていいんですか?」
ヒマリの静かな、けれど促すような声が銀次の鼓膜を叩く。
「え?」
「浅野さんは、あなたの大切な相棒なんですよね? この場合、私にも落ち度があるとは思いますが、まず最優先にすべきは、彼女の感情ではないでしょうか?」
振り返ったヒマリの瞳には、いつもの冷徹な計算高さではなく、どこかハルトの背中を後押しするような優しさが宿っていた。
「……確かにそうだ。馬鹿なことをしたって謝らないと!」
ハルトは大きく息を吸って吐き、迷いを断ち切った。 隣に座るヒマリに「ありがとう、先輩!」とだけ言い残すと、彼は猛ダッシュでアサの姿を追いかけ、カフェテリアを飛び出した。
その後ろ姿を、ヒマリは独り言のように呟いた。
「……全く、浅野さんが羨ましいです」
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ハルトは学内を探し回り、ようやく彼女を見つけた。
午後の眩しい太陽に照らされた大学の屋上。
フェンスに寄りかかり、遠くの街並みを眺めている背中があった。
「はぁはぁ。アサ!」
肩で息をしながら、ハルトは扉を勢いよく開ける。
「……ついてこないでって、言ったわよね?」
アサは振り返ることなく、拒絶の言葉を口にする。
「ついてこないでって言ったって、お前、一人だと迷子になるだろ!?」
ハルトの不器用な言葉に、アサは一瞬だけ肩を揺らしたが、何も言い返してはこない。
ハルトはゆっくりとフェンスまで歩み寄り、彼女の少し後ろで足を止めた。
アサは俯いたまま、まだ黙っている。
「アサ、本当に申し訳なかった。お前を裏切ることをしてしまったって、今更だけど思うんだ」
ハルトはフェンスまで歩み寄り、彼女の少し後ろで足を止めた。
アサはまだ黙っている。
「だから、もし、お前が嫌なら、この契約は切ってもいいと思ってる」
「……」
「でも、これだけは言わせてほしい。ここ一か月、僕はYouTuberとして、アサは魔法少女としていろんなところを巡ったけど、僕はその時間がとても楽しかった。いろいろ振り回されたりしたけど、その時間は絶対に一人旅では体験することができなかったものだ」
アサの横顔が、夕闇の中でわずかに歪む。
「僕は好きなんだ。アサと一緒に出掛けるあの時間が。だから、できるなら……どうか、辞めないでほしい」
それは、取り繕うことのないハルトの剥き出しの本心だった。
魔法少女と一般人という垣根を超えた、ただ一人の人間としての、不器用で真っ直ぐな叫び。
沈黙が降りた後、アサはようやく重い口を開けた。
「二つ質問があるから、答えてくれるかしら?」
「ああ、なんでも答える」
「……ハルト君、あなた、魔法使えるようになったでしょ?」
突拍子もない指摘に、ハルトはポカンと口を開けた。
「……どうしてそれを」
「あんまり魔法少女を舐めないでくれるかしら。わずかながらにハルトの気の流れが変化してる」
アサはようやく銀次の方を向き、いたずらっぽく、けれど鋭い瞳で彼を射抜いた。
「あなたを新宿駅で見つける前……それこそ、学科のオリエンテーションで見かけた時から、あなたは不思議な気を持ってたけど、この前まではそうじゃなかったわ」
アサの洞察力に、ハルトは情報の処理が追いつかない。
「大方、あのエクソシストが、あなたはこの世ならざる存在とかかわりを持ってしまったから、防衛手段として魔法を習得させたのだろうけど。あってるかしら?」
「……ああ、お見事だ。……隠しておくつもりはなかったんだけど」
ハルトが頭を掻くと、アサは「ふふん♪」と、少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。機嫌が少しだけ上向いたようだ。
「もう一つ。ハルトはどうして、あの女を仲間に加えようと思ったの?」
「なんでって……そりゃぁ」
「言っとくけど、次YouTubeを理由にしたら、今度こそ絶交だから」
アサがクギを刺す。
ハルトはゴクリと唾を飲み込み、改めて彼女の目を見つめた。
「……楽しくなると思ったんだ」
「……?」
「さっきも言った通り、アサとの旅行はとても楽しいことが多かった。だから、これが人数が増えれば、やりたい企画……いや、それよりも、僕たちの旅行がもっと楽しくなるんじゃないかって思ったんだ」
ハルトの真面目すぎる顔に、アサの表情が和らいでいく。
「ヒマリ先輩を誘ったのは、彼女がいれば、彼女とアサと僕で、この旅がもっと楽しくなるんじゃないかって。……ただの直感だけどね。それに、論理的な理由なんてない」
「……はぁ。まあそんなところだと思ったわ」
アサは大げさに溜息をつき、それから、なぜか背後にある屋上の入口の方へと視線を向けた。
「そこにいるんでしょ? ヒマリ。潜伏魔法で隠れてるのがバレバレかしら」
ハルトが驚いて振り返ると、屋上の扉の影の空間が揺らぎ、ゆっくりと潜伏魔法を解いたヒマリが苦笑いしながら姿を現した。
「……な、ヒマリ先輩!?」
「ごめんなさい。お二人の会話が気になってしまって、こっそりついてきてしまいました」
ヒマリは気まずそうに眼鏡の縁を触る。
「相変わらず悪趣味ね。でも、ハルト君がそこまで言うのなら仕方ないわ。今回だけ特別に仲間に入れてあげる」
「……っ、本当か!」
「ありがとうございます、アサさん」
ヒマリが深々と頭を下げた後、ニコッと穏やかに笑いかけると、アサは照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「……ちょっと。もう一度言うけど、その名前で呼ばないでくれるかしら」
ツンとした態度は崩さないものの、その横顔からは先ほどの刺々しさは消えていた。
不満げなアサを見て、ハルトは心の底からほっと胸を撫で下ろした。
それから、ふと思い出したように、ずっと気になっていたことを口にする。
「アサ、最後にちょっと聞きたいことがあるんだ」
「何かしら?」
「あの時、新宿駅で僕を見つけたのは……」
「あれは半分偶然。新宿駅で途方に暮れてたら、身に覚えのある不思議な魔力を感じたの。そしたらそこに、ハルト君がいただけの話」
アサは夕日に背を向けて笑った。
運命の調整を司る少女は、確信犯的に、あるいは本当に気まぐれに、ハルトのレールに飛び乗ってきたのだ。
「そもそも、最初の学科内オリエンテーションの時から、あなたのことは覚えていたわ」
「……どうして」
「だって、あなた自分では気づいていないみたいだけど、他の人より明らかに内在する魔力量が多かったから」
ハルトは再びポカンと口を開けた。彼女の手のひらの上で転がされていたような事実に、言葉が出ない。
「さ、それよりも、さっきできなかった次の計画を立てるかしら。お腹すいちゃった」
「そうですね。では、時間もちょうどいいですし、学食はどうでしょうか?」
ヒマリの提案に、アサが力強く頷く。
「あらいいじゃない。今日はハルト君のおごりね」
「は?」
「当たり前じゃない! 女たらしにはそれくらいの罰が必要よ。ね、ヒマリ先輩?」
「ごめんなさい、ハルト君。今回ばかりは、私もアサさんと同じ意見です」
「ま、マジでぇ~!?」
ハルトの叫びが、茜色の空に響き渡った。
旅行オタクの男子大学生の旅路に、一人の仲間が加わった瞬間だった。




