一章閑話
魔界。
常に赤黒い月が浮かび、地表からは瘴気が立ち上るこの世界の一角に、悪魔たちが集う酒場『プルガトリオ』があった。
重厚な扉を開けると、腐敗臭と硫黄の混じった匂いが鼻をつく。
その店の奥まった席で、一人の悪魔がテーブルに突っ伏していた。
「……やってらんねぇよ、マジで」
彼の名はドグ・ラ・エンヴィー。
人間界でいうところの、『嫉妬』を司る高位の悪魔の一柱……の端くれだ。
だが今の彼に、かつての威厳はない。
体はところどころ半透明に透け、自慢の角は片方が折れ、纏っている漆黒のコートはボロボロに焦げている。
「随分とひっどい有様ですね。生ゴミ処理機にでも突っ込まれたのですか?」
向かいの席に、ニヤリと笑う別の悪魔が座った。
細身のスーツを着崩し、短く整えられた銀髪を揺らす彼は、エンヴィーの悪友であり、『強欲』を司る眷属、マモン・クロードだ。
「……うるせぇよ、マモン。酒だ、酒。一番度数の高いやつを持ってこい」
「はいはい。で? 人間界への出張はどうだったんですか? 確か、『極上の嫉妬』を見つけたとか言ってましたよね?」
マモンがジョッキを差し出すと、エンヴィーはそれを一気に煽った。
喉が焼けつくような感覚と共に、彼は忌々しそうに口を開いた。
「器は最高だったんだよ。桑原ってガキだ」
エンヴィーは爪でテーブルをカリカリと引っ掻いた。
「あのガキの『嫉妬』は一級品だったぜ。自分に自信がなくて、プライドだけは高くて、他人の成功が許せない。ネット社会が生んだ歪みの結晶だ。あんなにドロドロしてて粘着質な魂は、そうそう食えるもんじゃない」
「へぇ。じゃあ、なんでそんなボロ雑巾のようになって帰ってきたんですか? 腹いっぱい食って、その器を乗っ取って終わりでは?」
「……邪魔が入ったんだよ」
エンヴィーは吐き捨てるように言った。
「アサノの血族だ」
その名を聞いた瞬間、マモンは一瞬目を細めたあと、更にニヤニヤを強めた。
「浅野……あの『人を幸せにする魔法使い』の末裔ですか? まだ絶滅してなかったのですね」
「ああ。しかも、俺が相手にしたのは、まだ覚醒しきってない小娘だったんだがな。……はぁ。思い出すだけで反吐が出る」
「ほう?」
「聞いてくれよマモン! どうしてオタクとやらは頭のおかしいやつしかいないんだ⁉」
「オタク……ですか?」
「ああ、俺の敗因は、浅野家の小娘じゃない。あんなやつ、あの時の俺なら一捻りで殺すことができた」
「なるほど、その場所にはもう一人、『オタク』がいたんですね?」
マモンは目を輝かせた。
「これは随分とおも……大変な思いをしましたね。それで、その『オタク』とやらはどのようなものだったのですか?」
「今面白そうとか言おうとしなかったか?」
「いえ、気の所為では?」
「はぁ、全く……人間の力を侮るべからずって、あんだけ親玉に教わったのにな」
エンヴィーはまたもやため息を吐いた。
「……それでオタクの話だったな、マモン。俺の最大の誤算は、浅野家の小娘でも、ましてや手前の駅でハイエナのように待機していたゴミどもでもない」
「ほう? 詳しく聞かせてもらっても?」
エンヴィーは、空になったジョッキを見つめ、忌々しそうに、しかしどこか信じられないものを見るような目で呟いた。
「……ただの、人間の男だ」
「人間?」
「ああ。魔力もねぇ、霊感もねぇ、ただの『鉄道オタク』の男……しかもYouTuberだ」
エンヴィーは、あの悪夢空間での出来事を語り始めた。
自分の精神世界『ナイトメア・レイルウェイ』を展開し、物理法則も因果律も支配したはずだった。
圧倒的な力でねじ伏せ、絶望させるはずだった。
なのに。
『お前の鉄道は、ただの模型だ!』
あの叫びが、耳にこびりついて離れない。
「確かにあいつは、俺の攻撃にビビっていた。だが、あいつは俺の思う以上に図太い奴だったんだ。世界の矛盾がどうのこうの、ダイヤの矛盾がどうのこうのって、恐怖する前に『分析』しやがったんだ」
「面白い変態人間ですね」
「ああ、変態だ。……普通、人間は理解できない力を見せつけられたら思考停止する。だが、あいつら『オタク』って人種は違う。異常事態すらも自分の知識というフィルターを通して解釈し、攻略法を見つけちまうんだ」
エンヴィーは深いため息をついた。
「あいつの言葉で、俺の世界にヒビが入った。そこへ小娘の魔力が流れ込んで……ドカンだ。ロジックで装甲を剥がして、パッションで殴る。あの二人の信頼関係も最高の状態だったしな。……最悪のコンビネーションだったぜ」
「これは傑作ですね。悪魔が人間に論破されて負けるなんて」
マモンは腹を抱えて笑った。
エンヴィーは憮然とした顔で、新しい酒を注文した。
「……それに、あの器のガキもだ」
「桑原ですか? 彼にこれ以上の何かが?」
「もう一度体制を立て直して奴の身体を乗っ取れるように、俺の残留思念を残しておいたんだ。そしたら見えたんだよ……憑き物が落ちたあいつ、何をしたと思う? 自分を負かした相手に、感謝しやがったんだ。『ライバルになってくれ』なんて言いやがって」
エンヴィーは不味そうに顔を歪めた。
「俺が一番嫌いな感情の味、『清々しい闘志』ってやつだ。あんな光り輝く魂になっちまったら、もう俺は近づきたくすらないね。……その正のエネルギーで、俺の残留思念も飛ばされちまったしな」
「そりゃ災難でしたね。結局、骨折り損のくたびれ儲けとは……」
「全くだ。……しばらく人間界はごめんだ。この傷が癒えるまでは、ここでおとなしくしてるよ」
エンヴィーはテーブルに突っ伏した。
マモンはそれを横目に見ながら、ふと、懐から一枚の古ぼけたメモを取り出した。
「なるほど……。ワタクシ、面白そうなアイデアを思いついちゃいました」
マモンは手をひらひらと振って、酒場の出口へと向かった。
扉が開くと、外の赤い月明かりが差し込む。
「あ? おい、どこへ行くんだよ!」
「人間界です」
「何しに行くんだ?」
「ワタクシも、YouTuberをやってみようかと」
「はぁ!?」
「エンヴィーさんもどうです?」
「誰がそんなことするか!」
「そうですか……。いつでもお待ちしてますよ。あなたならわたくしのチャンネルに大歓迎です」
それは、次に起こるであろう、より深く、より暗く、より面白い事件の幕開けを告げるスポットライトのようだった。
取り残されたエンヴィーは、再び酒を煽った。
「……あーあ。ほんと、鉄オタも、マモンの野郎も理解不能だな!」
悪魔の愚痴は、魔界の喧騒の中に虚しく消えていった。




