20話 絶望の時刻表
「……っ、はぁっ!?」
ハルトは、溺れた人が水面に顔を出したように、勢いよく息を吸い込んで目を覚ました。
「ここは……」
冷たい空気。カビと土の混じった匂い。
薄暗いコンクリートの空間。
そこは、上越線・土樽駅の待合室だった。
窓の外からは、変わらず関越自動車道の走行音が聞こえている。
戻ってきた。
悪夢から、現実へ。
「はぁ、はぁ……よかった……」
ハルトは震える手で自分の体を確認する。怪我はない。
夢の中でのダメージは、精神的な疲労として残っているだけだ。
安堵のため息をつき、隣を見る。
「アサ! 大丈夫か! 終わったぞ!」
しかし。
アサは答えなかった。
「……アサ?」
彼女はベンチに座ったまま、ぐったりと項垂れていた。
まるで糸の切れた人形のようだ。
ハルトは慌てて彼女の肩を揺する。
「おい! 起きろよ! アサ!」
反応がない。
顔色は白紙のように青白く、触れた肌は氷のように冷たかった。
呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。
「嘘だろ……?」
夢の中での激闘。
魔法少女としてのキャパシティを超えた魔力の放出。
精神世界でのダメージが、肉体にフィードバックしているのだ。
「う、うぅ……」
床の方から、苦しげな呻き声が聞こえた。
見ると、コンクリートの床に桑原が倒れていた。
彼の様子は、さらに深刻だった。
口から大量の血を吐き、全身が痙攣している。
悪魔に乗っ取られ、無理やり力を引き出された反動だろうか。
皮膚の一部が黒く壊死しかけているようにも見える。
「くそっ……どうして……!」
ハルトはパニックになりかけた思考を、必死に叩いた。
状況を整理しろ。
アサは魔力枯渇による昏睡状態。
ナルトは全身打撲に近い重傷。
二人とも、一刻も早い治療が必要だ。
ハルトはスマホを取り出した。
圏外表示が点滅している。
ここは山奥の秘境駅。電波状況は最悪だ。
待合室を出て、ホームの端まで走れば繋がるかもしれない。
だが、救急車を呼べたとして、ここまで来るのにどれだけかかる?
最寄りの街まで、山道を越えて数十分。いや、一時間はかかるかもしれない。
「列車の時間は……!」
壁に貼られた時刻表を見る。
絶望が、銀次の心臓を鷲掴みにした。
『上り 水上行き 17:34』
『下り 長岡行き 18:02』
現在の時刻は、14時過ぎ。
次の列車まで、上下線ともに3時間以上ある。
ここは、一日に数本しか列車が止まらない、陸の孤島なのだ。
「ふざけんなよ……!」
ハルトはベンチに戻り、アサの手を握った。冷たい。
ナルトの呼吸も、ヒューヒューと弱々しくなっていく。
「誰か……誰かいないのかよ!」
無人の駅舎に、銀次の叫びが虚しく響く。
外は新緑の山々。美しい景色が、今は残酷なほどに静かだった。
このままでは、二人とも死ぬ。
特にナルトは持たないかもしれない。アサだって、このまま目が覚めないかもしれない。
(僕が……僕がもっとしっかりしていれば……!)
鉄オタの知識なんて、こんな時には何の役にも立たない。
ただの大学生に、瀕死の二人を救う術などないのだ。
悔しさと恐怖で、涙が滲む。
「頼むよ……アサ、死なないでくれ……。ナルト君も……」
ハルトが祈るようにアサの体を抱き寄せた、その時だった。
ゴォォォォォ……ッ!!
突如、駅舎の外から轟音が響いた。
車の音ではない。
列車の音でもない。
もっと巨大な、大気を圧迫するような風切り音。
「な、なんだ!?」
地震か? 土砂崩れか?
ハルトはアサを庇うように身構えた。
直後。
カッッッ!!!!
駅舎の入り口、その外側が、真昼の太陽よりも眩しい光に包まれた。
強烈な閃光が待合室の中にまで差し込み、銀次は目を手で覆った。
「うわっ!」
光と共に、猛烈な突風が吹き荒れる。
貼ってあったポスターが剥がれ飛び、古い木製のベンチが軋んだ。
その光と風の中心に――何かが「降り立った」気配がした。
ゆっくりと、光が収まっていく。
ハルトは恐る恐る目を開けた。
駅舎の入り口。
逆光の中に、一つのシルエットが立っていた。
「……誰だ?」
最初は、救助隊かと思った。
だが、違う。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
年齢は30代後半から40代くらいだろうか。しかし、年齢不詳の美貌を持っている。
アサによく似た、しかしアサよりも遥かに洗練されたピンクベージュの髪をなびかせ、その身には現代的な服装ではなく、豪奢なローブのようなコートを纏っていた。
そして何より異常なのは――彼女の足が、地面から数センチ浮いていることだった。
「あらあら、随分と派手にやったわねぇ」
女性は、鈴が転がるような声で言った。
その声には、今の絶望的な状況には不釣り合いなほどの余裕と、絶対的な威厳が含まれていた。
「あ、あなたは……?」
ハルトが声を絞り出す。
女性はふわりと宙を滑るように移動し、待合室の中に入ってきた。
彼女が通ったあとには、キラキラとした光の粒子が残る。それはアサの魔法に似ているが、密度と輝きが桁違いだった。
彼女はハルトを一瞥もしない。
真っ直ぐに、倒れているナルトの元へ向かった。
「……ふん。悪魔憑きの成れの果て、か。随分と質の悪いのに憑かれたものね」
彼女が右手をかざす。
何も唱えていない。ただ、手をかざしただけだ。
それだけで、ナルトchの体を覆っていた黒い壊死のような痕が、消しゴムで消すように綺麗に消え去った。
苦しげだった呼吸が、安らかな寝息に変わる。
「なっ……」
ハルトは言葉を失った。
一瞬だ。瀕死の重傷が一瞬で治った。
女性は次に、ベンチのアサの方へ向いた。
「……はぁ、誰に似たのかしら」
彼女は慈愛に満ちた、しかしどこか呆れたような目でアサを見つめ、その額に指先でデコピンをした。
パチン。
その軽い衝撃と共に、アサの体に血の気が戻っていく。
青白かった頬に赤みが差し、冷たかった手が温かくなる。
アサが「んぅ……」と小さく呻き、安らかな表情で眠りについた。
「……あ、あの!」
ハルトは我に返り、女性に声をかけた。
「応急処置をしただけよ。二人とも、完全に回復するには、一度東京に帰る必要があるわ。……まあ、そこまで緊急ではないけど」
彼女は二人を助けてくれた。それは間違いない。
だが、一体何者なのか。どうやってこの山奥に、空から現れたのか。
「あなたは、誰なんですか? アサの……知り合い?」
女性はようやくハルトへ視線を向けた。
その瞳はアサによく似ていた。
だが、その奥には底知れない深淵が宿っている。
彼女は、首をゆっくりと傾げた。
「保護者が迎えに来ちゃダメかしら?」
そして妖艶な笑みを浮かべ、彼女はゆっくりとハルトへ歩み寄った。
「この子を守ってくれてありがとう、少年」
その声は、耳からではなく、脳へ直接響いてくるようだった。
「いつもこの子がお世話になってるわね。……動画、見てるわよ?」
「……え?」
動画?
思わず間の抜けた声が漏れる。
女性はくすくすと笑い、宙に浮いていた足を軽やかに床へ下ろした。
そう言って、アサの肩にそっと手を添える。
「はじめまして。私は浅野みゆき」
優雅に一礼するその姿は、どこか現実離れしていた。
その背後では、まるでファンタジー映画のように光の粒子が舞っている。
保護者。
そして、アサと同じ「浅野」の姓。
(……アサのお母さん、なのか)
ハルトはそう結論づけた。
秘境駅・土樽。
列車も来ない。
人も来ない。
陸の孤島。
そこへ舞い降りたのは、科学も常識も超越した、一人の女性だった。




