1話 小田急線はどこかしら?
新宿駅の小田急線ホーム。
頭端式のホームが特徴のこの駅は、日常を過ごす通勤通学客も、非日常を楽しみにする観光客も、どちらも大勢利用する巨大な始発駅である。
ひっきりなしに通勤電車が発着する上、箱根や湘南などへ観光客を運ぶ、小田急名物の特急ロマンスカーも20分おきにこの駅から旅立っていく。
そんな新宿駅の人混みの中で、スマホのカメラを回している人物が一人。
彼の名前は、秋津ハルト。
先日大学に入学したばかりの、経済学部の1年生である。
横長の黒縁メガネをかけて、少しインテリジェンスな雰囲気を醸し出しつつ、どこか優しいお坊ちゃんのような雰囲気がある彼には、とある趣味が存在していた。
(おはようございます、旅行系YouTuberの銀次です。今日は次の動画の収録をするため、新宿駅に来ています!)
ハルトは、スマホのカメラに自分の手を映し、手を振っている様子を録画した。
そう、秋津ハルトは、旅行系YouTuber『銀次』でもあるのだ。
周りに不審な目で見られるのを恐れた彼は、音声は自宅で後撮りするスタイルで収録をしているのだが、そもそも駅構内を歩き回りながらスマホで映像を録画してる時点で、十分不審者である。
さて、ハルトが新宿駅の小田急線乗り場にやってきたのは、もちろんこれから、とある列車に乗る動画を収録するためである。
ハルトの視線の先には、鮮やかなフェルメールブルーの車体が輝く、立派な車両が停車していた。
(これから乗るのは、特急ロマンスカー『ふじさん』号! 見てください、この小田急60000形MSEの美しい流線型を! 地下鉄にも直通できるマルチな才能を持つ、まさに新時代のロマンスカーですよね!?)
脳内で早口な解説を繰り広げながら、満足げに頷くハルト。
もはや彼は、旅行系YouTuberではなく、鉄道系YouTuberであるのだった。
(よし、動画もとれたし、早速ロマンスカーに乗車だ。御殿場行くのは初めてだから楽しみだなぁ)
うきうきランランとそんなことを考えながら、乗車口へと足を動かそうとした、その時だった。
「うぅ……ここ、どこ……?」
どこからか、亡霊のような呟きが聞こえた。
気になって声のした方向を見ると、改札付近の柱の影に、今にも泣き出しそうな女子大生が佇んでいる。
透き通るような明るいオレンジ色の髪に、流行りのファッション。
いかにも「イケてる女子大生」という風貌だが、その表情は世界の終わりを見たかのように絶望していた。
(なんだろう? 地方から出てきたばかりの子かな? それにしても、どこかで見たことがあるような……)
ハルトが首を傾げた瞬間、彼女と目が合った。
(え? こっち向いた? 僕を凝視してる? いや、流石に気のせいか。カメラ回してるし、自意識過剰はやめよう。早く乗車しなきゃ)
ハルトは関わり合いを避けるように視線を逸らし、ロマンスカーの方へ歩き出す。
だが、次の瞬間。
ガシッ!
とてつもない握力で、二の腕を掴まれた。
「なっ!?」
驚いて振り返るハルト。
そこには、先ほどの女子大生が必死の形相でしがみついていた。
「ちょうどよかったわ! ねぇあなた、ハルト君でしょ? この私を助けなさい!」
「えぇっ、急に何これ逆ナンパ!? っていうか、ごめん急いでるから! その腕離して!」
「嫌よ! 離したら私が死ぬ!」
「普通ここで拒否する!? というか君、誰!?」
「誰って、私は同じ学科の浅野よ! ほら入学直後の授業のグループ課題で同じ班だったじゃん!?」
浅野。
その名前を聞いて、ハルトの脳内データベースが高速で検索をかける。
入学して一週間。たしかに、そんな名前の女子が近くの学籍番号にいた気がする。
「浅野……浅野……そう言えば、そんな名前の子がいた気もしなくもないな……」
「というわけでハルト君! 私は今『イセハラ』に行きたくて、小田急線に乗りたいの。だけどこの新宿駅で迷っちゃって……。ねぇ、小田急線ってどこかしら?」
ハルトはゆっくりと、自分の足元を指さした。
「負けないで~も~少し~さ~いごまで~走り~ぬ~けて~」
「何急に? 歌ってる場合? プロポーズならいらないわよ?」
「違うよ! ここが小田急線の乗り場なんだってば!」
ハルトのツッコミに、浅野は、ぽかんと口を開けた。
「あら? そうなの? なんか西口やら新南口やら、新宿三丁目やらをずっとグルグルしちゃってたんだけど、ようやく辿り着けたのね!」
(新宿三丁目まで行ってたのかよ……。浅野さんって、とんでもない方向音痴なんじゃ……)
ハルトは呆れつつも、時計を確認した。発車時刻が迫っている。
「場所はわかったね? そうと決まれば、僕はあの全身ブルーのカッコイイ電車に乗るから!」
「あ、待って! 私もそれに乗る!」
浅野が目を輝かせてMSEを指差した。
「あの青い電車で伊勢原に行けばいいのね!」
「待て待て待て! あれはロマンスカーの『ふじさん』号! 全席指定だから特急券が必要だし、そもそもあれは伊勢原には止まらないから!」
「特急券? 追加料金が必要ってこと?」
「そう! それに伊勢原まで行くんだったら、混んでるけど次の快速急行で行くのが速……」
「いいわ! 特急料金払うから、ロマンスカーで行きましょう! ねぇ、ハルトくん、次の伊勢原に止まるロマンスカーはどれかしら?」
浅野は聞く耳を持たない。
ハルトは深いため息をついた。
「はぁ……。一応、20分後の『はこね』号なら伊勢原に止まるけど……」
「わかったわ! じゃあ早速特急券を買いに行きましょう!」
「じゃあ、僕はこの『ふじさん』に乗るからここでグエッ!?」
浅野はハルトの襟首をグイッと掴んだ。
「どこ行こうとしてるの、ハルトくん? 私一人で伊勢原に辿り着けるわけないじゃない。特急券も今から人生で初めて購入するんだし」
「そのくらいじぶ……グエッ……息が……!」
「急ぎの用事でもあるの? ないなら、私についてきてくれるよね?」
首を絞められながら、ハルトは悟った。
この女、見た目によらず怪力である。そして、一度言い出したら絶対に引かないタイプだ。
本来なら、御殿場で「さわやか」のハンバーグを食べる動画を撮る予定だったが、これでは命がいくつあっても足りないのは、自明であった。
「わかった……わかったから、シャツの襟を引っ張らないで……!」




