15話 工業地帯の海の駅
ゴールデンウィーク前半。
世間は大型連休の浮かれムード一色だ。
ハルトとアサもまた、大学の講義がないこの好機を逃すまいと、撮影に出かけていた。
「ねぇ銀次くん、今日はどこに行くのかしら? 『海』としか聞いてないんだけど」
JR鶴見駅。
京浜東北線のホームから階段を上がり、少し特殊な乗り換え改札を通りながら、アサが期待に目を輝かせている。
今日の彼女は、海に合わせてか、爽やかなマリンボーダーのワンピース姿だ。正直、似合っている。
「ふっふっふ、今日はアサへのサプライズだ。行き先はシークレット。……ただ、アサが想像してるキラキラしたビーチとは、ちょっと違うかもしれないね」
「……? どういうことかしら?」
「乗ればわかるさ。ほら、これに乗るぞ」
ハルトが案内したのは、鶴見線のホーム。
そこに停まっていたのは、スカイブルーとイエローの帯を巻いた、真新しい車両、E131系だった。
「わぁ、可愛い電車ね! 顔が水玉模様みたいだわ!」
「この鶴見線はね、京浜工業地帯の中を走る、都会のローカル線なんだ。一番前の車両に行こう」
二人は先頭車両に乗り込んだ。
休日のためか、車内には同じようなカメラを持った鉄道ファンや、カップルの姿もちらほら見える。
「出発進行ー!」
運転士の合図とともにアクセルレバーがガコンと動き、電車が動き出す。
高架を走り、工業地帯へ入っていくと、車窓の景色は一変した。
巨大な工場のパイプ、煙突、積み上げられたコンテナ。
無骨で錆びついた鉄の風景が続く。
「……ねぇ銀次くん。これ、本当に海に行くのかしら? なんか秘密基地の工場見学みたいなんだけど」
「大丈夫大丈夫。終点まで行けば驚くから」
電車は「浅野駅」という、アサと同じ名前の駅を過ぎ、運河を渡り、さらに奥へと進んでいく。
自分の苗字と同じ名前の駅に、アサが大変喜んでおられたのは言うまでもない。
そして、約20分の小さな旅の終わり。
工場群のトンネルを抜けた瞬間、視界が劇的に開けた。
「おおっ……!」
窓の外一面に広がったのは、キラキラと輝く東京湾の水面。
まるで電車が海の上を滑っているかのような錯覚。
そして、プシューという音と共にドアが開く。
「終点、海芝浦〜。海芝浦です」
ホームに降り立ったアサは、言葉を失っていた。
目の前は、柵ひとつ隔ててすぐ海。
潮風がダイレクトに吹き付けてくる。
「す、すごい……! 何ここ! 本当に海の上じゃないの!」
「ここは『海芝浦駅』。関東の駅百選にも選ばれた、海に一番近い駅の一つだ」
「最高! さすが銀次くん、天才ね!」
アサはスマホを取り出し、自撮りを始めた。
ハルトもカメラを回し、この絶景を収める。
だが、ここでハルトが一つ、重要な解説を挟んだ。
「ちなみにアサ。この駅には一つ、大きな罠がある」
「罠?」
「後ろを見てみろ」
アサが振り返ると、改札口の向こうには工場の守衛所があり、警備員が立っていた。
「この駅の改札の外は、東芝さんの私有地なんだ。だから、工場の関係者以外は改札から出られない」
「ええっ!? じゃあ私たち、ここから一歩も外に出られないってこと!?」
「改札の外には出られないけど、駅構内に『海芝公園』っていう公園が併設されてるんだ。今日はそこで撮影をするぞ」
「なるほど! 閉じ込められた楽園ってわけね!」
二人はホーム直結の公園へと移動した。
ベンチに座り、ベイブリッジや行き交う船を眺めながら、まったりとしたトーク動画を撮る。
波の音と、時折聞こえる電車の音が心地よいBGMだ。
「……幸せね〜」
アサが缶コーヒーを飲みながら呟いた。
「依頼解決で走り回るのもいいけど、たまにはこうやってのんびりするのも悪くないわね」
「そうだな。最近忙しかったし、いいリフレッシュになると思ったんだ」
平和な時間。
しかし、その穏やかな空気を切り裂こうとする「悪意」が、すぐ近くまで迫っていた。
***
駅のホームの端。
自動販売機の影に、ナルトchこと桑原は潜んでいた。
「……イチャイチャしやがって。反吐が出る」
彼は黒いパーカーのフードを目深に被り、じっと二人を睨みつけていた。
前回のドローン作戦は失敗した。
ネット工作も、銀次の誠実な性格とアサの人気によって、ボヤ騒ぎ程度で鎮火してしまった。
だから今回は、直接この手で「不幸」を届けに来たのだ。
「これを使えば……」
桑原の手には、小さな黒い小瓶が握られていた。
中に入っているのは、彼の中に巣食う「声」が作り出した、特製の液体。
これを撒けば、強烈な腐臭が発生し、さらに周囲の害虫を一斉に引き寄せるという。
せっかくの海辺のデート動画を、ハエと悪臭まみれの地獄絵図に変えてやる。
「へへ……あのアマが悲鳴を上げて逃げ惑う姿、高画質で撮ってやるよ」
桑原は小瓶の蓋を開けた。
ドス黒いモヤのようなものが立ち上る。
彼はそれを、風上に立ってそっと流そうとした。
「行け……絶望を味わえ……」
黒いモヤが風に乗り、ベンチに座る二人の方へ漂っていく。
あと数メートル。
モヤがアサの背後に迫った、その時だった。
「ん〜っ! いい天気!」
アサが大きく伸びをした。
そして、気持ちよさそうに深呼吸をする。
「銀次くん、あれ見なさい! あっちの雲、ソフトクリームみたいじゃないかしら!」
アサが無邪気に指差した瞬間。
彼女の指先から、パァン! と弾けるような「陽の気」が放たれた。
それは魔法ではない。
彼女自身が持つ、底抜けに明るいオーラと、この場の「幸福感」が共鳴して生まれた、天然の浄化作用だった。
ジュワァァァ……!
迫っていた黒いモヤは、アサの光に触れた瞬間、朝霧のように消滅した。
それどころか、浄化された空気は爽やかな海風となり、逆流して桑原の方へ吹き返した。
「……あ?」
桑原は呆然とした。
自分の放った呪いが消えた?
いや、それだけではない。
逆流してきた風が、手元の小瓶を弾き飛ばしたのだ。
ガシャン!
小瓶が足元で割れた。
中身が桑原の靴とズボンにぶち撒けられる。
「うわっ!? くっさ!!」
強烈な腐敗臭が桑原を包み込んだ。
そして、どこからともなく、ブンブンという羽音が聞こえてくる。
公園の植え込みに隠れていたハエや羽虫たちが、その臭いに引き寄せられ、一斉に桑原に群がってきたのだ。
「うわあぁぁぁ!? やめろ! 来るな!!」
桑原はパニックになり、手足を振り回した。
だが、虫たちは容赦なく彼にまとわりつく。
「あ、見て銀次くん! あそこの自販機の裏、なんか黒いのが暴れてるよ? 珍しいダンス?」
「……いや、あれは関わっちゃいけない人な気がする。見ちゃダメだ」
遠くで何かがのたうち回っているのを見て、二人は不思議そうに首を傾げたが、すぐに興味を失って海の方へ向き直った。
「そろそろ電車の時間だから、戻ろうか」
「うん! めちゃくちゃ楽しかったわ!」
二人は荷物をまとめ、やってきた折り返しの電車に乗り込んだ。
桑原は、虫にたかられたまま、走り去る電車を涙目で見送ることしかできなかった。
***
数時間後。
都内のワンルームマンション。
シャワーを何度浴びても取れない微かな悪臭に包まれながら、桑原は部屋の隅で震えていた。
「許さない……許さない……!」
失敗した。また失敗した。
それも、相手は何の意図もなく、ただ「幸せそうにしていた」だけで、こちらの悪意を跳ね返したのだ。
それが何よりも屈辱だった。
自分はこんなにも惨めなのに。あいつらは、光の中で笑っている。
「……悔しいですか?」
脳内の声が、これまでになくハッキリと響いた。
それは甘く、そして冷たい響きだった。
「……悔しい。殺してやりたいくらい、憎い」
「では、委ねなさい。あなたのその嫉妬、憎悪、劣等感……すべてを私に」
部屋の影が、ぬるりと立ち上がった。
それは桑原の影でありながら、彼とは違う形をしていた。
角が生え、目が赤く光る、悪魔のシルエット。
「小さな嫌がらせなど、もう必要ありません。もっと直接的に、もっと暴力的に……彼らの『一番大切なもの』を壊してしまいましょう」
「一番大切なもの……」
「そう。彼らの絆、そして……あの魔法少女の命を」
桑原はゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳からは、もう理性の光は消え失せていた。
あるのは、濁った闇だけ。
「ああ……いいな、それ。俺が……俺こそが、最強の主役になるんだ」
「契約成立です」
ズブブブ……。
影が桑原の体を飲み込んでいく。
彼の皮膚が黒く変色し、血管がどす黒く浮き上がる。
指先が鋭利な爪に変わり、口元が耳まで裂けた。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
断末魔のような叫び声と共に、人間・桑原は消滅した。
そこに立っていたのは、嫉妬を燃料に燃え盛る、人の形をした怪物だった。
怪物は、机の上に置かれたデスクトップPCのスリープを解除した。
画面には、銀次へのメッセージ送信画面が表示されている。
「さぁ、始めようか。最後のコラボを」
ゴールデンウィークも後半に差し掛かった。
二人のもとに、どす黒い何かが忍び寄る。




