7.5章閑話1
栗島邸の門をくぐるのは、随分と久しぶりのことだった。
夏の日差しが照りつける中、アオイとチハルは、無言のまま、玄関へと続く石畳を歩いていた。
「……変わらないね、ここ」
チハルが、ぽつりと呟く。
広い庭は、手入れをする者もいなくなって、雑草が伸び放題になっていた。
かつて、あれほど厳格に整えられていた庭が、今はもう、誰の意志も宿さない、ただの空間になっている。
「うん」
アオイは、鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。
埃っぽい空気が、二人を出迎える。
「荷物、二階だよね」
「うん。私の部屋と……あと、書斎にも、少し」
二人は、無言のまま、廊下を進んだ。
家主である栗島アキラの気配は、もうどこにもない。
それでも、この家に染み付いた、独特の重苦しさだけは、まだ確かに残っていた。
「――お姉ちゃん」
書斎に足を踏み入れたところで、チハルが、ふと足を止めた。
その視線の先には、大きな書棚があった。
分厚い書物や、古びた巻物が、整然と並んでいる。
「お父さんが、いつも大事にしてたやつだよね、これ」
「……うん」
アオイの声に、微かな緊張が滲む。
チハルは、その中の一冊――ひときわ古い、装丁の擦り切れた本を、そっと手に取った。
表紙には、「栗島家家訓書」と、古めかしい文字で刻まれている。
「――『家の守り絶やすことなかれ』」
チハルが、ページを開き、静かに読み上げた。
「これ、小さい頃から、何度も何度も聞かされた言葉なんだ」
アオイが、静かに頷く。
「意味、知ってる? これ」
チハルの問いに、アオイは首を振った。
「私は元々この家の人間ではないので……」
「お姉ちゃんはそうだよね……」
チハルは少し困ったように笑いながら、話を続けた。
「――薬の技術を、絶やすな。進化させ続けろ。それが、栗島家の『守り』」
「なんで、薬なの」
「栗島家はもともと、秋津家の従家だったの。……秋津の家系。人を幸せにする魔法を持つ、あの家の」
チハルは、本のページを、指でなぞった。
「従家って、要するに、家来ってことだよね?」
「そう。支える役目を担っていた家。栗島家は、薬系の魔法――科学と魔術を組み合わせて、人の体を作り変えたり、力を付与したりする専門の家だった」
アオイの声が、どこか、抑揚を失っていく。
「本来なら、秋津家を支えるための力だったはずなのに……何代か前に、扱いを巡って、大きな確執があったらしいの。詳しいことは、私も知らない。ただ」
「ただ?」
「その時から、栗島家の家訓の意味が、変わったの。『家の繁栄のために。自分達を虐げた秋津家に報いるために』」
チハルの手が、ぴたりと止まった。
「……つまり、私たちのお父さんがやってきたことって、全部」
「うん。積年の恨みを、晴らすため。それだけのために、代々、薬の技術を磨き続けてきた家」
チハルの声が、静かに、けれど確かに震えていた。
「私も、その道具にされた。あなたも」
チハルは、しばらくの間、じっと、本のページを見つめていた。
黒く滲んだインクの文字が、まるで呪いのように、そこに刻まれている。
「――ねえ、お姉ちゃん」
「なに」
「これって、私たちも、絶やしちゃいけないの? この、『守り』」
アオイは、妹の目を、まっすぐに見た。
「絶やしていいの、絶やして。……もう、誰も、この家の呪いに縛られる必要なんてない」
「でも、これがなかったら、私は、栗島家じゃなくなっちゃうんじゃ」
「チハル」
アオイは、そっと、妹の手を取った。
その手に握られたままの、古い家訓書。
「あなたが栗島家である必要なんて、最初からなかったのよ。あなたは、あなた自身。お父さんの道具でも、この家の呪いを継ぐ器でもない」
チハルの瞳に、じわりと、涙が滲む。
「……私、ずっと、怖かった」
「うん」
「お父さんみたいに、なっちゃうんじゃないかって。この家に生まれた以上、いつか、同じことを繰り返すんじゃないかって」
「そんなこと、ならない」
アオイは、力強く、妹の手を握り締めた。
「あなたは、もう、チハルは、私と、お母さんと一緒に生きるの。栗島家の呪いなんかじゃなく、葛城家の――ううん、これから、自分たちで作っていく、新しい家族として」
チハルの目から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
「――お父さんのこと、嫌いになりきれなかった。恨んでるはずなのに、どこかで、まだ、好きだった自分もいて」
「いいのです、それで」
アオイは、静かに、妹を抱きしめた。
「嫌いになれなくても、その呪いだけは、置いていっていい。それとこれとは、別の話だから」
しばらくの間、書斎には、チハルの静かな嗚咽だけが響いていた。
やがて、チハルは、涙を拭うと、手にしていた家訓書を、静かに見下ろした。
「これ……もう、いらないよね」
「うん」
アオイが、小さく頷く。
チハルは、その本を抱えると、庭へと続く窓を開けた。
夏の日差しが、埃っぽい書斎に、一気に差し込んでくる。
庭の隅、かつて父が使っていた小さな焼却炉に、チハルは、ゆっくりと歩み寄った。
「さようなら、栗島家」
その言葉と共に、古い家訓書が、炉の中へと落とされる。
マッチの火が、乾いた紙に燃え移り、瞬く間に、炎が立ち上った。
パチパチと、紙の焼ける音だけが、静かな庭に響く。
アオイは、その隣に立ち、妹の肩に、そっと手を置いた。
「これで、終わり?」
チハルが、炎を見つめたまま、小さく尋ねる。
「ううん。これから、始まるの」
炎が、家訓書を、跡形もなく灰へと変えていく。
積み重ねられた、恨みと憎しみの歴史が、静かに、この世界から消えていった。
「行こう、チハル。荷物をまとめたら、帰ろう」
「うん」
夏の陽射しの下、二人は、手を取り合って、雑草の伸びた庭を、ゆっくりと歩き出した。
もう二度と、振り返ることのない、栗島邸を後にして。




