117話 真相
霧のように揺らめく輪郭が、街灯の消えた闇の中で、ゆっくりと像を結んでいく。
やがてそこに立っていたのは、灰色がかった長い髪をなびかせた、人間離れした美貌を持つ女だった。
瞳だけが、ぼんやりと赤く発光している。
「――ミスト」
ヒマリが、警戒を露わに、低く名を呼んだ。
「あら。名前をちゃんと覚えていてくれたのね、嬉しいわ」
ミストは、くすりと笑うと、ハルトへと、ゆっくりと視線を移した。
「そして――秋津ハルト君、だったかしら。お久しぶり、ではないわね。あなたと直接お話しするのは、これが初めて」
「……初めて? 何を言って――」
言いかけて、ハルトは、ふと、記憶の底に触れるものを感じた。
「まさか」
「あら、気づいちゃった?」
ミストは、愉快そうに、口元を歪めた。
「あなたがみゆきの携帯に電話をかけてきた、あの時。電話に出たの、私よ」
「――ッ!」
ハルトの息が、詰まった。
『はい。浅野です』
あの、耳に心地よい大人の女性の声。
みゆきの声だと、疑いもしなかった、あの声。
「あんたが、みゆきさんに……!」
「正確には、みゆきさんの声に、化けただけ。声色を真似るのなんて、私にとっては朝飯前だもの」
ミストは、両手を広げ、大げさに肩をすくめてみせた。
「浅野そら君が仕込んだお芝居に、ちょっとだけ、お手伝いしてあげたのよ。あの子一人じゃ、あなたの疑いを晴らせなかったでしょうから」
「じゃあ、あの時の話は……そらは、全部……」
「全部が嘘、というわけでもないわ。あの子が話したことの大半は、本当のこと。……ただ、電話の向こうにいたのが本物のみゆきさんだった、という一点だけが、真っ赤な嘘」
「本物じゃない、って……」
ハルトの声が、掠れる。
「みゆきさんは、あの時、どこにいたんだ」
「あら、鋭いじゃない」
ミストは、赤い瞳を、愉しげに細めた。
「本物のみゆきさんはね、あの頃にはもう、マダー様に身柄を捕らえられていたの」
「――ッ!」
「あなた達に指示を出してる人間が、あなたたちにいずれ話したでしょう? 『浅野みゆきが封印された』って」
ミストは、くすくすと喉の奥で笑った。
「あれ、比喩でもなんでもなくて、そのままの意味よ。声じゃなく、体そのもの。マダー様が、浅野みゆきの身柄を、丸ごと封じ込めていたの」
ヒマリが、息を呑む音が聞こえた。
「じゃあ、あの時電話に出たのは……最初から」
「私。全部、私」
ミストは、悪びれもせず、頷いた。
「そら君の作り話に、真実味を持たせるための、ちょっとした小道具。当主代行の声が本人のものだと信じてもらえれば、あなたたちはそれ以上、深く疑わなかったでしょう?」
事実、そうだった。
あの電話の後、ハルトは違和感を覚えながらも、それ以上は踏み込まなかった。
「そういえばカイトの馬鹿が、わざわざ『みゆきさんの封印、解いてあげようか』って、マダー様の居場所の情報ごお、ご丁寧に持ちかけたこともあったわね」
「あれも、本当だったのか……」
ハルトの拳が、震えるほど強く握りしめられた。
「もちろん。マダー様は、噓はつかない主義なの。……ただ、都合の悪い部分を、言わないだけ」
ミストは、くすりと笑うと、両腕を広げた。
「安心して。浅野みゆきの封印は、マダー様が捕らえられた今頃、もう自然に解けてるはずよ。主が消えれば、術も終わる。単純な話」
ミストは、愉しげに続けた。
「あなたたちが疑いを持たずに、あの子の話を信じ込んでくれた方が、私たちにとっては都合が良かったの。それだけのことなんだから」
ヒマリが、拳を強く握りしめる。
「じゃあ、おとはさんを封印したのも……」
「それは、そらお坊ちゃんの、正真正銘の仕事よ。あの人はね、身内の手でしか無力化できない一族の弱点を、忠実に利用しただけ」
ミストの声に、初めて、冷ややかな響きが混じった。
「私は、その後始末を、少し手伝っただけ。……ま、詳しい話は、もう興味もないでしょうけど」
「あんた……何が目的なんだ」
ハルトが、低く問う。
ミストは、その問いを待っていたかのように、にやりと笑った。
「決まってるじゃない。マダー様を、お救いすること」
「マダー……?」
「ああ、あなたたちの言葉なら、こう言った方が通じるかしら」
ミストは、両腕を広げ、恍惚とした表情を浮かべた。
「――栗島アキラ様よ」
「栗島アキラは私達の手で拘束させていただきました。あなたも大人しくすれば、拘束で済ませてあげますよ?」
ヒマリは、キッとミストを睨んだ。
「そうね。体は、確かに捕らえられてしまった。……でも、それだけのこと」
ミストは、赤い瞳を、すっと細めた。
「あの方の魂は、まだこちら側に――私たちの手の届く場所にあるの。総務省異界管理局なんてわけのわからない組織から、マダー様を脱獄させることなんて、私一人で十分可能よ」
「そんなこと、させるわけには――」
「ええ、わかってる。あなたたちなら、必ず邪魔をしにくる」
ミストの声が、すっと低くなる。
「だから、先に、片付けておこうと思っただけよ」
ぞわり、と、周囲の空気が変わった。
霧のような輪郭が、輪郭を保ったまま、するすると輪郭を広げていく。
「ヒマリ、下がって!」
ハルトが、咄嗟に、ヒマリの腕を引いた。
「ふふ……。マダー様の御為に。――ここで、消えてもらうわね」
ミストの姿が、闇そのものに溶けるように、掻き消える。
次の瞬間、ハルトの背筋に、氷のような冷気が、鋭く走り抜けた。




