116話 最後の任務
大学の正門を出ると、あたりはすっかり夜の帳に包まれていた。
人気のなくなったキャンパスに、街灯の光だけが、ぽつりぽつりと灯っている。
ハルトが正門前で待っていると、校舎の陰から、見慣れたシスター服の女性が現れた。
「お待たせしました、ハルト君」
「こんばんは、先輩。僕も今来たところだよ」
「そうなんですね。では、まだ任務開始まで時間がありますし、少し散歩しませんか?」
「散歩って……まあいいけど」
ハルトは、少し面食らいながらも、頷いた。
任務前だというのに、どこか浮かれたようなヒマリの様子が、逆にハルトの緊張を、そっとほぐしてくれる気がした。
二人は、誰もいない並木道を、肩を並べてゆっくりと歩き出した。
夜風が、木々の葉をさわさわと揺らしている。
「あー懐かしいなぁ。ここ」
ヒマリが、ふと足を止め、辺りをぐるりと見回した。
「おや? 確かこの辺りは……」
「そうだよ。先輩がベンチに座ってお昼ご飯を食べてる僕にマ〇チ勧誘をしてきた場所だ」
「それは酷いですハルトくん。私は別に詐欺師ではありません」
ヒマリは頬を膨らませて怒ってみせる。
「冗談だよ」
「全く……」
ハルトは、思わず笑いながら、その場所をもう一度、じっと見つめた。
あの日、無理やり手渡されたビラの感触。
胡散臭さを全開にしたヒマリの笑顔。
――今思えば、あれが、全ての始まりだった。
「……あれからもう四ヶ月も経ったんですね」
「ええ。あと数週間すれば、後期の授業が始まります。ハルトくん、履修登録は済んでますか?」
「流石にやってるよ。……後期は、アサも大学に安心して通うことができそうだ」
「ええ、そうですね……」
ヒマリの声が、ふと、柔らかく沈んだ。
四ヶ月前のあの日には、想像もしていなかった未来。
魔法のことなんて、何一つ知らなかった、ただの大学生だった自分。
そこから、こんなにも多くのものを、抱えることになるなんて。
「あの頃は、まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかったよ」
ハルトが、しみじみと呟く。
「私もです。……正直、最初にハルトくんを勧誘した時は、こんなに長い付き合いになるなんて、思ってませんでしたから」
ヒマリは、そう言って、いたずらっぽく笑った。
「アオイと会って。アサと会って。おじさんの家にも、また行けるようになった」
「そうですね。私自身も……失ったものも、手に入れたものも、ありました」
一瞬、ヒマリの表情に、小さな影が差す。
ハルトは、それに気づきながらも、あえて何も言わなかった。
ただ、隣を歩くその歩調に、そっと合わせた。
「悔しいこと、悲しいこと、たくさんあったけど……それでも、みんな、ちゃんと前に進んでるよね」
「はい。……アサが目を覚ましてくれた時、心の底から、そう思いました」
ヒマリは、夜空を見上げた。
雲間から、淡い月明かりが、二人の足元を静かに照らしている。
「まだ、終わってないんですよね。カイトのこと、悪魔化の薬のこと、栗島家との因縁……」
「うん。でも」
ハルトは、静かに、けれどはっきりと続けた。
「一つずつ、片付けていけばいい」
「――そうですね」
ヒマリが、隣で、優しく微笑んだ。
「今夜の任務も、その一つ。……ミストを、確保します」
「相手は、栗島アキラの部下、だったよな」
「はい。アキラが捕まってから鳴りを潜めていたはずなんですが、最近また、動きが確認されたそうで」
ヒマリの声に、任務前の緊張が、ゆっくりと戻ってくる。
「気を抜かないでくださいね、ハルトくん」
「わかってる」
その時だった。
並木道の先――街灯の光が、不自然に、ふっと消えた。
「――ッ」
ヒマリが、即座に足を止める。
ハルトも、緊張を纏い、周囲に視線を走らせた。
闇の奥、消えた街灯の下に、いつの間にか、人影が一つ、佇んでいた。
輪郭は、まるで煙のように、揺らめきながら、掴みどころがない。
「――ようやく、お出ましか」
ヒマリが、低く呟く。
その人影は、ゆっくりと、こちらへ顔を向けた。
暗闇の中、二つの赤い瞳だけが、ぼんやりと浮かび上がる。
「ふふ……随分と、賑やかにお喋りをしていたね」
霧のように歪んだ声が、夜の静寂に、不気味に溶けていった。
「ミスト……!」
ハルトが、思わず一歩、前に出る。
その悪魔は、ゆらりと輪郭を揺らめかせながら、口元だけを、三日月のように吊り上げた。




