115話 眠り姫
秋津家を辞去したハルトが向かったのは、都内の総合病院――アサが、まだ入院を続けている病室だった。
「あ、ハルト君」
みゆきは、ベッドの脇の丸椅子に腰掛けていた。
眠っているアサの寝顔を見つめていたその横顔が、ハルトに気づいて、ふっと緩む。
「みゆきさん。……アサの様子、どうですか」
「傷は塞がってきてるわ。あとは、体力が戻るのを待つだけね」
みゆきは、そう言うと、ハルトに向かって、隣の椅子を勧めた。
ハルトは、静かに腰を下ろす。
規則正しい寝息だけが、静かな病室に響いていた。
「――今日は、葛城さんのところに行ってたのよね」
「はい。……杏子さんから、秋津家のこと、少し聞いてきました」
「そう」
みゆきは、小さく頷いた。
「だったら、ちょうどいいわ。私からも、話しておかなきゃいけないことがあるの」
「アサの……名前のこと、ですか」
ハルトの問いに、みゆきは、静かに目を伏せた。
「うみの真名を封じたのは、私よ」
「……やっぱり」
「驚かないのね」
「なんとなく、そうじゃないかって、思ってました。アサが致命傷を負った時、みゆきさんが治してましたから」
みゆきは、小さく苦笑した。
「あの子が、まだ小さい頃の話をするわ」
みゆきは、眠るアサへと、優しい視線を向けた。
「知ってると思うけど、私はおとはの姉。あの子にとっては、叔母にあたるの」
「はい、それは……」
「浅野の力は、代々、まっすぐ受け継がれてきたわけじゃない。おばあちゃんから、おとは。おとはから、うみ。――そういう順番なのね」
みゆきは、静かに続けた。
「私は、おとはの姉なのに、力を継がなかったわ。うみの弟のそらも、継がなかった。……なぜか、いつも、そうなるの。姉妹でも、姉弟でも、片方にしか、核が宿らない」
「そう、なんですね……」
「だから私は、母――うみたちの祖母から見ても、力を持たない孫だったの。おとはが正式に当主を継いで、私はただの、姉」
みゆきの声に、当時を思い出すような、微かな翳りが混じる。
「うみがまだ五歳くらいだった頃……一度、力が暴走したことがあったの」
「暴走……」
「本人には、悪気なんて欠片もなかった。ただ、ちょっとしたことで泣いて、癇癪を起こして。それだけのことだったのに――周りの確率が、めちゃくちゃに歪んだの」
みゆきは、静かに息を吐いた。
「近くにいた大人が二人、階段から転げ落ちた。植木鉢が、ひとりでに窓から飛んで、危うく人に当たるところだった。……あの子自身は、何が起きているかも、わかっていなかったと思う」
ハルトは、言葉を失った。
まだ幼かったアサが、無自覚に振るっていた、あまりに大きすぎる力。
「このままじゃ、いつかあの子自身が、取り返しのつかないことをしてしまう。そう思ったの」
みゆきは、静かに続けた。
「だから、封じた。力そのものじゃなく、名前を」
「どうして、名前を……?」
「魔法はね、心のエネルギーを変換したもの。名を失った者は、心の状態が不安定になり、力の発現そのものが、大きく抑制されるの。――あの子から力を奪いたかったわけじゃない。ただ、あの子自身が、その力に振り回されずに、普通の子どもとして生きられるように」
ハルトは、みゆきの言葉を、噛みしめるように聞いていた。
「――逆のことをしてると思うかもしれないけど、あの子には、魔法使いの女性としてじゃなく、『浅野うみ』として生きてほしかった。私の、勝手な願いだったのかもしれないけどね」
「……そんなことないです」
ハルトは、思わず口を挟んだ。
「アサを、守りたかったからですよね」
みゆきは、少し驚いたように目を見開き、それから、静かに微笑んだ。
「――ええ、そうよ」
みゆきの表情に、悔しさが滲む。
「あなたも知っての通り、おとはだって、そらに囚われて、何年も力だけを利用され続けてた。……この家は、身内の手で、何度も踏みにじられてきた」
その声には、長い年月分の重さが滲んでいた。
「やっと、名前を返せた。……やっと、この子は『浅野うみ』にも『アサ』にも、ちゃんと戻れた」
「みゆきさん」
「なにかしら?」
「――ありがとうございます。アサのこと、ずっと、守ろうとしてくれて」
みゆきは、一瞬、目を潤ませた。
けれど、すぐに、いつもの穏やかな微笑みを取り戻す。
「お礼を言うのは、こっちの方よ。……あの子を、ちゃんと目覚めさせてくれたのは、ハルト君なんだから」
窓の外、夕暮れの光が、静かに病室を橙色に染めていく。
眠るアサの寝顔は、穏やかだった。
もう、誰にも奪われることのない、確かな名前を抱いて。




