114話 遠い昔の秋津家
湯呑みから立ち上る湯気が、静かに揺れていた。
杏子は、しばらくの間、何かを選ぶように、じっと湯呑みを見つめていた。
「秋津家について、あなたはどこまで知ってる?」
「――正直、あまり」
ハルトは、素直に答えた。
「うちの親、そういう話とかあんまりしないタイプで。おじさんとは家族ぐるみで仲良くしてもらってたけど、家の歴史とか、そういうのはほとんど聞いたことがなくて」
なんなら、ハルトの両親は、おそらく魔法とは無縁の世界で生きてきた人間だ。
秋津家の血を引くハルトの父親も、魔法の使い方どころか、異界管理局の情報統制で、魔法の存在すら知らないだろう。
「わかった。……なら、はじめから話すね」
杏子は、湯呑みを両手で包み込みながら、静かに語り出した。
「秋津家はね、『人を幸せにする魔法』――その、発祥の家なの」
「発祥……」
「うん。今でこそ、色々な家系が、似たような効果を持つ魔法を使うけれど。それを最初に見つけたのは、秋津家の遠い先祖なんだ」
「浅野家も、そうなんですか」
ハルトの脳裏に、みゆきの顔が浮かんだ。
みゆきの――そして、アサの家系が持つ、あの不思議な力。
「よく気づいたね」
杏子は、小さく微笑んだ。
「浅野家はね、後から続いた家なの。何代か前の当主が、秋津家の在り方に倣って……自分たちの持つ適性――確率を操る力を使って、同じ理念を実践しようとした。いわば、後発の、派生の家系」
「理念……」
「そう。『人を幸せにする』というのは、魔法の術式である以前に、一つの――生き方みたいなものだから」
杏子の声には、どこか誇らしげな響きがあった。
「秋津家は、その理念そのものの、いわば原点。浅野家は、それに影響を受けて、自分たちのやり方で同じ道を追いかけようとした家。……そういう関係なの」
アオイが、そっと口を挟む。
「秋津家の魔法って、結局どういうものなの? お母さん」
「――それはね」
杏子は、一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「私も、詳しくは知らないの。宗介も、あまり多くを語らなかったから」
「え……」
「ただ一つだけ、はっきり言えることがある」
杏子は、湯呑みをテーブルに置くと、まっすぐにハルトを見た。
「秋津家の人間はね、意識して魔法を使わなくても……ただそこにいるだけで、周りの人を、少しずつ幸せにしてしまう。そういう体質なんだ」
「体質……」
「宗介が、いつも言ってた。『発動してる自覚なんて、一度もない』って。本人にしてみれば、ただ普通に笑って、普通に喋って、普通に側にいるだけ。それだけのことなのに、気づけば、周りの人間の心が、少しずつ軽くなっていく」
杏子の口元に、懐かしそうな笑みが浮かぶ。
「私も、最初はそれに気づかなかったわ。ただ、この人と一緒にいると、なんだか毎日が楽しいなって。それだけだと思ってた。……でも、実はそれこそが、あの人の魔法だったのよね」
ハルトは、思わず、自分の胸に手を当てた。
――心当たりが、ないわけではなかった。
チャンネルのコメント欄で、よく言われる言葉。
『なんか見てると元気出る』
『ハルトさんの動画、疲れてる時に見ると落ち着く』
深く考えたことはなかった。
ただの、お世辞だと思っていた。
「……もしかして、僕も」
「ええ。おそらく、ハルト君にも」
杏子は、静かに頷いた。
「宗介の血を継ぐ者は、皆、多かれ少なかれ、その性質を持っているはず。本人が意識するかどうかは、別として」
「そんな……」
ハルトは、言葉に詰まった。
自分が、無意識に、誰かを幸せにしている。
そんな実感は、正直、まだどこにもなかった。
だが――
(アオイの、あの反射)
ハルトはアオイと出会ったあの日のことを思い出していた。
(触れられることを、あんなに怖がっていたのに)
アオイはあの時、ハルトの手を強く振り払った。
(いつの間にか、僕には……)
脳裏に浮かんだ考えを、ハルトは、慌てて振り払った。
「え、えっと。それって、いつ、どうやって発動してるとか、そういうのは……」
「そこまでは、私にもわからないね」
杏子は、小さく肩をすくめた。
「宗介も、最後まで、自分の力の正体をきちんと言葉にはしなかったから。……もしかしたら、本人にも、よくわかっていなかったのかもしれないわね」
アオイが、隣で、ハルトの手にそっと触れた。
「大丈夫だよ、ハルト君」
その手のひらの温もりに、ハルトは、少しだけ、肩の力を抜いた。
「あなたは、自分の力について、どう思っている?」
杏子の問いに、ハルトは、しばらく考えてから、静かに答えた。
「よく……わからないです。まだ」
「それでいいと思う」
杏子は、優しく目を細めた。
「焦らなくていいよ。宗介だって、そうだった。……自分の力の本当の意味を、最後まで、はっきりとは口にしなかったんだから」
窓の外では、いつの間にか、夕暮れの光が、群青色の夜に溶け始めていた。
「今日話せるのは、ここまで」
杏子は、静かに立ち上がった。
「続きはまた、今度話すね。――時間はまだいっぱいあるから」
その言葉に、ハルトは小さく頷いた。
まだ知らないことが、たくさんある。
けれど、それを急いで知る必要はないのだと、その優しい声が、教えてくれているような気がした。




