七章エピローグ
窓の外は、まだ夜が明けきらない、薄青い時間。
総務省異界管理局の庁舎は、臨時の医療施設として機能していた。
蛍光灯の白い光が、無機質な会議机の上に等間隔の影を落としている。
新宿駅で起きたあの一連の惨劇から、既に丸一日が経過していた。。
異界管理局の執務室には、ハルトとヒマリの二人が、疲れ切った表情で座っていた。
アサの姿は、そこにはない。
「――さて、上官として話を始める」
最初に声を発したのは、ファーベルとの戦いで大きく負傷した土方だ。
まだあの戦いから1日程度しか経過していないが、最低限の応急措置だけを済ませた彼は、執務室にすぐに戻り、今回の新宿駅の案件を含めた残りの仕事を片付けていた。
そんな状況で自身の疲労を隠しきれていない土方が、いつになく静かな声で話し始める。
普段の張り詰めた空気とは、どこか違う。
その声の端に滲んでいるのは、労いにも似た何かだった。
ハルトとヒマリは、促されるまま前のめりに彼の話を聞き始めた。
「まず、結論から言う」
土方は、机の上に広げた資料に視線を落とした。
「浅野うみは一命を取り留めた。致命傷は免れている」
その言葉に、ハルトの肩から力が抜けた。
「ただし」
土方はすぐに続ける。
「意識はまだ戻っていない。深い眠りについたまま、今は病院で経過観察の状態だ。回復するかどうかも、正直、まだ断言できる段階じゃない」
「……そう、ですか」
ハルトは、拳を強く握りしめた。
安堵と不安が、同時に胸を締め付ける。
「ファーベル、そして浅野そらについては」
土方は淡々と続けた。
「現場から忽然と姿を消している。行方は依然として不明だ。総力を挙げて捜索しているが、手掛かりらしい手掛かりは今のところ何もない」
「あの二人、生きてるんですよね」
ヒマリが低い声で問う。
「さぁな。……少なくとも、死体は見つかっていない」
土方はそう言うと、一枚の写真を机の上に置いた。
見覚えのある、あの異形の姿。
「デストロイの消滅は確認した。あの化け物は、もうどこにもいない」
「……そうですか」
ハルトはその写真から、静かに目を逸らした。
ラストと話したあの夜の記憶が、まだ鮮明に胸に焼き付いている。
「栗島アキラについては」
土方は、資料を一枚めくった。
「現場で拘束した後、異界管理局管轄の拘置所に移送済みだ。今後は然るべき手続きを経て、然るべき裁きを受けることになる」
「あいつは、これでもう……」
「ああ。少なくとも、当面の間は表舞台に出てくることはない」
土方の声に、微かな重みが混じった。
「――さて。問題はここからだ」
土方は腕を組み、窓の外に目を向けた。
夜明け前の空が、少しずつ白み始めている。
「お前たちも、薄々気づいているだろうが」
「情報統制、ですか」
ハルトが、静かに問う。
「ああ」
土方は重く頷いた。
「今回の一件は、あまりにも規模が大きすぎた。新宿駅という日本有数のターミナル駅で、白昼堂々大量の悪魔が発生した。目撃者の数も被害の規模も、これまでとは桁が違う」
土方は資料を一枚、二人の前に滑らせた。
そこには、無数のニュース見出しの切り抜きが貼り付けられていた。
『新宿駅で謎の爆発、テロか』
『新宿駅通り魔多発事件、犯人グループの一部を確保』
『新宿駅無差別襲撃事件、負傷者多数』
「上層部はあらゆるメディアを使って、情報統制の魔法をフルパワーで展開した。テレビ、新聞、インターネット――ありとあらゆる媒体を通じて、な」
「フルパワー、って……」
「文字通りの意味だ」
土方は、静かに、けれどはっきりと告げた。
「今回の事件は、対外的には新宿駅で発生した大規模テロ事件として処理される。実行犯は身元不明のまま逃走中の過激派グループ、ということになっている」
「そんな……」
ヒマリが思わず声を上げる。
「悪魔なんて最初から存在しなかった。世間はまた、そういうことになる」
土方の声には感情の色が、ほとんど滲んでいなかった。
だがその奥に、微かな苦さが隠れているのを、ハルトは感じ取った。
「悪魔化した人間たちは、どうなったんですか」
ハルトが静かに問う。
土方は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「……全員が、無事だったわけじゃない」
「――ッ」
「力に耐えきれず命を落とした者も、一定数いる。それは事実だ」
土方の声がわずかに沈む。
「一方で、大半は然るべき処置によって、人間の体に戻すことができた。今はそれぞれ治療とケアを受けながら、社会復帰に向けて動いている」
「……悪魔化した人たちに、襲われた人たちは」
ヒマリが震える声で、続けて問う。
「その中にも、犠牲者は出ている。数は、決して少なくない」
土方は静かに、けれど目を逸らさずに答えた。
「その事実だけは、俺たちも覆すことはできない」
しばらくの間、部屋には重い沈黙が満ちていた。
「――お前たちの気持ちは、わかる」
土方が静かに口を開く。
「これだけの犠牲を出しておいて、なかったことにされる。理不尽だと思うだろう」
「……はい」
ハルトは、正直に答えた。
「だがそれでも」
土方は二人の目を、まっすぐに見た。
「この世界の均衡を保つためには、必要な処置だ。魔法の存在が大々的に露見すれば、社会そのものがもっと大きな混乱に陥る。今回、命を落とした人々を、これ以上増やさないためにも、な」
その言葉に、ハルトもヒマリもすぐには頷けなかった。
理屈ではわかる。
だが、それを簡単に飲み込めるほど、二人の心はまだ、整理がついていなかった。
「――今日は、もう休め」
土方は資料を静かに閉じると、席を立った。
「浅野家の令嬢のことも心配だろう。だが、今のお前たちにできることは、もうほとんどない」
その言葉に、ハルトは小さく頷いた。
「……わかりました」
執務室を出ると、窓の外には夜明けの光が、静かに差し込み始めていた。
昨日までと何も変わらないはずの、いつもの朝。
けれどハルトの中には、もう消えることのない、確かな変化が刻まれていた。
「――ハルト君」
隣を歩くヒマリが、ふと、静かに口を開いた。
「アサは強い子です。絶対に目を覚ましますよ」
「うん」
ハルトは小さく、けれど確かに頷いた。
「僕も、そう信じてる」
朝焼けに染まり始めた空の下、二人はそれぞれの想いを抱えながら、静かに、駅の方へと歩き出した。




