七章閑話
意識が浮上する感覚は、ひどく久しぶりのものだった。
瞼の裏に感じるのは、闇ではなく、淡い緑色の光。
温かく、脈打つように明滅するその光は、傷ついた肉体の奥深くにまで、じんわりと染み渡っていく。
(――回復魔法、か)
ファーベルは、ゆっくりと目を開いた。
そこは、荒れ果てた岩肌がむき出しになった、名もない洞穴の中だった。人間界にも、魔界の中枢にも属さない、狭間の空間。
「――気が付いた?」
声の主は、傍らに膝をつき、両手をファーベルの胸元にかざしていた。
淡い光を纏うその手は、幼さの残る少年――そらのものだった。
「……スカイ」
「うん」
そらは、小さく頷いた。
その顔には、隠しきれない疲労と、それでも滲む安堵が浮かんでいた。
「新宿から、ここまで運ぶだけで、精一杯だった。回復魔法だって、本当は僕には向いてない。……間に合って、よかった」
ファーベルは、ゆっくりと自分の胸元に触れた。
あの一撃の感触が、まだそこに残っている気がした。
「……不思議なものだな」
「何が?」
「これほどまでに、何かに"驚かされた"のは、随分と久しぶりだった――と思ってな」
そらは何も言わず、ただ小さく笑った。
ファーベルは、洞穴の天井、その先にあるはずの、見えない空を見上げた。
そうしていると、ふと、遠い記憶が、脳裏に浮かび上がってくる。
ファーベルには、生まれつきの純粋な悪魔だ。
生まれながらにして、魔界の最深部――光の届かぬ書庫の奥で、目を覚ました。
そこには、誰が集めたとも知れない書物と、朽ちかけた実験器具だけが、静かに積み上げられていたのが、彼の最初の記憶である。
生粋の悪魔。
生まれついての、学者。
なぜ自分がそう在るのか、理由を考えたことは、一度もなかった。
ただ、物心ついた時には、あらゆる事象の"仕組み"を知りたいという渇望だけが、体の芯に据えられていた。
魔力の流れ、生命の構造、そして――秩序と混沌が交わる、その境界。
とりわけ、彼の関心を強く引いたのは、人間界だった。
秩序で塗り固められた人間の社会が、ひとたび混沌に呑まれた時、その先に何が形成されるのか。
絶望の底で、人間は何を選び、何を生み出すのか。
それは、魔界のどの書物にも記されていない、未知の実験だった。
ファーベルは、それを追いかけた。
ただ、それだけだった。
だがいつからか、その背には自然と人影が増えていった。
人間界に恨みを抱く者。
魔界で成り上がりたい者。
行き場を失った者たち。
誰に呼びかけたわけでもないのに、彼らは、ファーベルの追い求める"実験"の中に、自分自身の望みを重ね、集まってきた。
――利用されている、と思ったことはない。
むしろ彼らもまた、ファーベルにとっては興味深い変数の一つに過ぎなかった。
そんな彼の前に現れたのが、幼く、力に怯え泣いていた、一人の少年だった。
「――ありがとう、そら」
不意に告げられた言葉に、そらは目を丸くした。
「え……?」
「最後まで、ついてきてくれた。礼を言うのが、随分と、遅くなったな」
そらはしばらく、言葉を探すように黙り込んでいた。
やがて俯いたまま、小さく首を振る。
「……礼なんていらないよ。だって僕には、他に行く場所なんてなかったから」
「そうか」
ファーベルは、ゆっくりと体を起こした。
傷はまだ完全には塞がっていない。
だが、立てないほどではなかった。
「新宿での一件は、私の見誤りだった。人間の世界を、本当の意味では知らなかったんだな」
そう呟いた声には、悔いよりも、むしろ、どこか楽しげな響きが滲んでいた。
「今度は、どうするの?」
「決まっているさ」
ファーベルは洞穴の奥、闇の向こうへと視線を向けた。
「あの世界だけが全てではない。混沌が形作るものが、一つとは限らないようにな。……いくつもの並行世界を巡り、この目で確かめに行くとしよう」
「僕も一緒に?」
「無論だ」
ファーベルはそこで初めて、僅かに口の端を上げた。
「お前は、私の最も興味深い"実験"の一つだ。最後まで見届けてもらわねば困る」
そらは少しだけ泣きそうな顔をして、それから確かに頷いた。
「――うん」
二人の姿が闇の奥へと溶けていく。
新宿に残された者たちの物語とは、別の場所で。
ファーベルとそら――スカイの物語は、まだ終わっていなかった。




