111話 未来を切り開く者
「さて」
ファーベルは瓦礫を踏みしめながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その足取りはあくまで穏やかで、戦いの真っ只中にいるとは思えないほど、静かだった。
「――来るな!」
ハルトは、拳を構えたまま後退る。
土方が倒れ、おとはが倒れ、ヒマリももう立ち上がれない。
頼れるものはもう何もなかった。
「怖がらなくても、いいのですよ」
ファーベルは足を止め、崩れた駅構内をぐるりと見渡した。
「私はただ、少し話をしたいだけです。……あなたと」
「話……?」
「ええ。せっかくの幕引きの舞台ですから。少しくらい無駄話を挟んでも、罰は当たらないでしょう」
ファーベルは両腕を広げ、崩れた天井の隙間から差し込む鈍い光を仰いだ。
「私がなぜ、この場所を拠点に選んだのか。考えたことはありますか」
「知るかよ、そんなこと……!」
「ふふ。まあ、そう仰らずに」
ファーベルは瓦礫の上を、まるで散歩でもするように、ゆっくりと歩き続けた。
「新宿駅、というのは面白い場所です。一日に数百万という人間が行き交う。秩序立てられたダイヤグラム、整然と並ぶ改札、電光掲示板――その一方で、迷い込んだ旅行者、はぐれた子供、行き倒れた酔漢、行き場のない者たち。あらゆる"混沌"が、その秩序の隙間に、常に息づいている」
彼は、静かに目を細めた。
「秩序と、混沌が、これほど濃密に同居している場所を、私は他に知りません。……醜くて、それでいて、この上なく美しい」
「美しい、だと……!?」
ハルトの声に、怒りが滲んだ。
何十人……下手したら何百人、何千人もの人間が犠牲になった場所を、この男はそんな言葉で語っている。
「ええ。あなたには理解しがたいでしょうね。ですが私にとっては、これ以上ない舞台なんですよ。秩序が崩れ、混沌が滲み出す、その瞬間こそが」
「なぜそこまで……混沌に拘るんだ……」
ハルトの問いに、ファーベルは初めて、僅かに目を伏せた。
「――ご存知ですか。私の名は、遥か昔の言葉で『未来を切り拓く者』を意味していたそうです」
「……何が、言いたい」
「秩序だけの未来に、可能性はありません。決められた道を、決められた速度で走るだけの、退屈な明日が続くだけです。ですが、そこに混沌が差し込まれれば――道は、幾通りにも分岐する。人間が、絶望の中でもがき、それでも何かを掴み取ろうとする、あの瞬間にこそ、新しい未来を切り拓く力が宿る」
ファーベルは、静かに続けた。
「浅野の血に流れる、確率を歪める力。あれは現在において、人々に幸福を運ぶために使われていました。……ですが私に言わせれば、それは宝の持ち腐れだ。あの力を反転させ、この国を覆う"隠蔽"という名の秩序、その前提そのものを壊してしまえば――人間は絶望の底から、否応なく新しい可能性を選び取らざるを得なくなる。それこそが、私の望む"未来"です」
「そんなのは……ただの、屁理屈だ……!」
「そんなことはありません。私にとっては、これ以上ない大義なんですよ」
ファーベルは微かに笑い、視線を崩れた天井の向こうへと投げた。
「――尤も、この世界で上手くいかずとも構いません。世界はこれ一つではないのですから」
「……どういう意味だ」
「さあ。……今はまだ、語る時ではないでしょう」
ファーベルはそこで、ふと足を止め、ハルトへと視線を戻した。
「――ところで秋津ハルト君。私があなたを"観察対象"だと言ったこと、覚えていますか」
「……」
「あの科学者――マダー、人間だった頃の名を栗島アキラと言いましたね。彼はあなたのことを随分と前から知っていましたよ。……正確にはあなたの叔父、秋津宗介のことをですが」
「……っ」
叔父の名前に、ハルトは思わず顔を上げた。
「秋津。今でこそ見る影もありませんが、元を辿れば名の知れた魔法使いの家系です。そしてその家には、栗島アキラにとって決して無視できない男がいた。……その甥が、浅野の娘と新宿駅で出会った。それが観測された時点で、あなたは私たちの盤面に載ったのです」
ファーベルは、愉快そうに、口の端を吊り上げた。
「当然、警戒はしましたよ。没落したとはいえ秋津の血です。魔法の才も血筋の力もきちんと受け継いでいる。……ですが、それだけならただの"想定内の駒"に過ぎなかった」
「何が言いたい……」
「マダーは、こう言っていました。『あの人間だけは、読めない』と」
ファーベルの声が、僅かに低くなった。
「才があろうと血筋があろうと、あなたはまだ修練を積んだ魔法使いには遠く及ばない。動きも、力の量も、こちらは全て把握していた。計算の上では、あなたはとうに盤上から消えているはずだったのです。それなのに――あなたの周りだけ、あまりにも都合よく物事が転がりすぎている」
ファーベルの声が、僅かに低くなった。
「――時間を、遡っていますね、あなた」
心臓が、大きく跳ねた。
「な、んで……」
「単純な、消去法です」
ファーベルは、静かに続けた。
「スカイの正体への気づきと待ち伏せ。栗島アキラの誘い出しと捕獲。どれもこれも本来なら、幾つもの偶然が重ならなければ起こり得ない出来事です。それがあなたの周りでだけ、あまりにも綺麗に、連続して起きすぎている」
「……」
「確率を扱う者として申し上げますが――それは、"運がいい"という言葉で片付けていい領域をとうに超えています。まるで既に一度、その道筋を歩いた者のように」
ファーベルは静かに両手を広げた。
「答え合わせは不要ですよ。あなたの顔が、もう十分に物語っている」
ハルトは何も言い返せなかった。
拳を握る手が震えている。
「さて――前置きはこれで十分でしょう」
ファーベルの気配が一段と重くなった。
周囲の空気そのものが軋むように歪んでいく。
「秋津ハルト君。……あなたが背負ってきたもの、あなたが繰り返してきたもの、その全てをここで見せてもらいましょうか」
黒い触手が地面から幾筋も突き上がった。
「――来い……!」
ハルトは、拳に残っている全ての力を込めた。
恐怖も、絶望も、今は全て後回しだ。
倒れた仲間たちの姿を目の焼き付けたまま、ハルトは地を蹴った。
崩れた新宿駅の構内で、少年と悪魔の一騎打ちが、静かに幕を開けた。
黒い触手が四方から殺到する。
ハルトは光を纏った拳で、その一本一本を薙ぎ払っていった。
最初の数合は渡り合えていた。
土方から見て学んだ体捌き、そして自分自身が積み重ねてきた拳。
ファーベルの影を、確かに捉える瞬間もあった。
だが――それも、長くは続かなかった。
「なかなか、粘りますね」
ファーベルは涼しい顔のまま、ハルトの拳を紙一重で躱し続けている。
息一つ乱さない相手に対し、ハルトの呼吸は既に限界に近かった。
「くっ……!」
放った光弾が、影の壁にあっさりと吸収される。
「そろそろ、限界のようですが」
ファーベルが静かに手をかざす。
束ねられた黒い光が、うねりながら一つの奔流となっていく。
(――躱せ、ない……)
腕が、上がらない。
足に、力が入らない。
迫り来る奔流を、ただ見つめることしかできなかった。
その時だった。
「――ハルト君から、離れなさい……!」
澄んだ、それでいて、これまで聞いたことのないほど力強い声が、崩れた駅構内に響き渡った。
「……アサ……!?」
奔流を真横から切り裂くように、眩い光の奔流が交差した。
爆風にも似た衝撃が、ハルトの体を吹き飛ばす。
瓦礫の向こうに立っていたのは、確かにアサだった。
けれど、纏う気配がまるで違う。
全身から立ち上る力が、これまでとは比べ物にならないほど密度を増していた。
「――これは」
ファーベルが初めて、僅かに目を見開いた。
「その気配……まさか」
「ええ」
アサはまっすぐに、ファーベルを見据えた。
「浅野うみ。――それが、私の、本当の名前」
風もないはずの空間で、アサの髪が、淡く光を纏いながら揺れていた。
「おばさんが教えてくれた。私を守るために封じられてた名前だって。……でも、もう隠れてる場合じゃない」
「名前一つで、何が変わるというのです」
ファーベルは、口元に変わらず笑みを浮かべたまま言った。
だがその声には、僅かな緊張が滲んでいた。
「確かめてみる?」
アサが地を蹴った。
その速さに、ハルトの目は追いつかなかった。
気づいた時には、アサの拳が既にファーベルの眼前に迫っていた。
「――ッ!?」
ファーベルが咄嗟に影の壁を幾重にも展開する。
だがそれは、まるで薄紙のように次々と切り裂かれていった。
「な……!」
アサの拳がファーベルの胸元を、真正面から捉える。
確率を歪める力と純粋な魔力の奔流が、一つになってファーベルの体を打ち抜いた。
「が……ッ……!」
ファーベルの体が、大きく仰け反った。
胸元から、これまで見せたことのない量の血が噴き出す。
(――何、だ、これは……)
長い年月、幾つもの秩序と混沌を、頭上から見下ろしてきた。人間の絶望も、悪魔の裏切りも、そのすべては計算し尽くした盤上の駒の動きに過ぎなかったはずだ。
それなのに今、胸を貫いたこの一撃には、これまで一度も感じたことのない――名付けようのない熱のようなものが、確かに宿っていた。
初めて目の前の光景が、"読めないもの"に見えた。
「――う、そ……」
ファーベルは片膝をついたまま、自分の胸を、信じられないというように見下ろした。
「この、私に……」
「まだよ」
アサは拳を握り直しながら、静かに続けた。
「ハルト君にも、お母さんにも、ヒマリにも、土方さんにも……みんなに酷いことした。その分、返してもらう」
崩れた駅構内に、静かに、しかし確かな敗北の気配が、初めてファーベルの周りに漂い始めていた。




