109話 時間稼ぎ
「私は、ファーベル。……この茶番の、幕を引きに参りました」
その声が、崩れた駅構内に響いた瞬間だった。
ファーベルの周囲に、無数の黒い触手じみた影が、音もなく湧き上がった。
「――来る……!」
ヒマリが、剣に変わるアクセサリーを咄嗟に構えた。
だが、ハルトの体は、動かなかった。
数十人規模の部隊を、指一本で沈黙させた。その事実が、まだ体の芯に居座ったまま、抜けていかない。
頭では分かっている。動かなければ、殺される。それでも、足が、鉛のように重かった。
「ハルト君……!」
ヒマリの叫びが、やけに遠くから聞こえる。
影の一本が、まっすぐに、ハルトの喉元へと迫った。
「――ッ!」
視界が、白く塗り潰される。
気づいた時には、目の前に、アサの背中があった。
「アサ……!?」
鋭い音と、短い悲鳴。
影の刃が、アサの脇腹を、深く抉っていった。
「――あ、ぐ……ッ」
アサの体が、崩れるように、ハルトの腕の中へと倒れ込んでくる。
腹の傷から、じわりと、黒ずんだ血が滲み出していた。
「アサ……! アサ、しっかりしろ……!」
「バカ……。ぼーっと突っ立ってる、から……」
アサは、掠れた声で、それでも小さく笑ってみせた。
「まだ……喋るな……!」
「ハルト」
おとはの声が、鋭く割り込んだ。
その顔から、母親としての戸惑いは、既に消えていた。あるのは、覚悟だけだった。
「あの子を連れて、離れなさい」
「でも……!」
「私達が、時間を稼ぐ」
ヒマリが、剣を構え直しながら、静かに、しかし有無を言わさぬ声で続けた。
「今のハルト君に戦力としては期待していません。だから、逃げてください。それが、一番アサを守る道です」
「先輩……!」
「行きなさい、ハルト」
おとはが、ハルトの肩を、強く押した。
「私は、この子の母親よ。今度こそ、この子を守る」
その言葉の強さに、ハルトの中で、何かが弾けた。
迷っている時間はなかった。
「――っ、わかりました……!」
ハルトは、震える腕に、アサの体を抱え上げた。
驚くほど、軽かった。
それが、余計に恐ろしかった。
「行って……!」
ヒマリの叫びと同時に、おとはが両手を掲げる。
確率を歪める淡い光が、二人の周囲に渦を巻き始めた。
ハルトは、それ以上振り返らなかった。
崩れた壁の隙間、瓦礫が積み重なって影を作っている道を、そのまま、必死に走った。
背後で、幾つもの衝突音と、ヒマリの気合いの声、そしておとはの、変わらず涼しいままの声が響いている。
それが、少しずつ、遠くなっていく。
「――ここまで来れば」
ハルトは、崩れたコンクリートの陰に滑り込むように身を隠した。
息が、上がっている。腕の中のアサを、そっと横たえた。
「アサ……。アサ、聞こえるか」
「……聞こえて、る……」
アサの声は、驚くほど小さかった。
脇腹の傷口を、ハルトは震える手で押さえた。
指の隙間から、温かいものが、止めどなく溢れ出してくる。
「大丈夫だ。すぐに、なんとかするから……」
「なんとかって……何を、する気……」
アサが、薄く目を開けたまま、掠れた声で笑おうとした。
「あんたが、なんにも……できないの、知ってる、から……」
「黙って……! 今は、喋るな……!」
ハルトの声が、震えた。
遠くから聞こえてくる戦闘の音に、耳を澄ませながら、腕の中のアサの温もりが、少しずつ失われていくのを、ただ感じ続けていた。
その時だった。
「――どいて」
低く、けれど凛とした声が、頭上から降ってきた。
「……え……」
顔を上げたハルトの視界に映ったのは、まだどこか疲労の色を残しながらも、確かな意志を宿した瞳で、まっすぐにこちらを見下ろす女性の姿だった。
「みゆき、さん……!?」
「詳しい話は後。今は、時間が惜しいわ」
みゆきは、ハルトの返事を待たず、その場に膝をついた。
アサの脇腹の傷に手をかざすと、彼女の表情が、一瞬だけ強張った。
「……思ったより、深いわね」
「みゆきさん、アサは……!」
「大丈夫。今の私なら、止血と、これ以上の悪化を抑えることはできる。完全に治すには、もっと環境が整った場所が必要だけど――少なくとも、今ここで死なせはしない」
淡い光が、みゆきの掌から、アサの傷口へと注がれていく。
アサの荒い呼吸が、少しずつ、落ち着いていくのが分かった。
「ハルト君」
治療の手を止めないまま、みゆきが口を開いた。
「あなたは、ここを離れなさい」
「――え?」
「私が、この子を診ている間、私達は無防備よ。誰かが、この場所を護らないといけない」
みゆきの声は、静かだったが、有無を言わせない響きがあった。
「あなたに、それをやってほしいの」
ハルトの体が、すぐには動かなかった。
――さっき、動けなかった。アサを、庇わせてしまった。あの一瞬が、まだ、体の奥に張り付いている。
自分が、今度こそ「護る」側に立てるのか。分からなかった。
「僕、で……いいんですか」
声が、情けないほど掠れた。
「いいも何も」
みゆきは、治療の手を止めないまま、初めて、ハルトの方を見た。その目には、叱るでも慰めるでもない、ただまっすぐな信頼だけがあった。
「あなたじゃなきゃ、駄目なのよ。今、ここに残ってるのは、あなたしかいないんだから」
「……」
「怖いなら、怖いままでいい。足が竦むなら、竦んだままでいい。それでも、立って。今のあなたにできることは、それだけ」
その言葉が、腹の底に、静かに落ちていった。
ハルトは、もう一度、アサの顔を見た。
みゆきの治療で、血の気の失われかけていた頬に、僅かだが、色が戻り始めている。
(――まだ、間に合う)
震える膝に、力を込める。
ハルトは、ゆっくりと、しかし確かに、立ち上がった。
「……わかりました」
拳を、強く握りしめる。
「アサのこと、お願いします」
「ええ。任せて」
みゆきは、短く頷き、再び治療に意識を集中させた。
ハルトは、瓦礫の隙間から、外の様子をうかがった。
遠くで、まだ、ヒマリとおとはの気配が、確かに戦い続けている。
「――行ってくる」
誰に言うでもなく呟いて、ハルトは、崩れた駅構内の闇の中へと、足を踏み出した。




