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Youtuberの旅行オタクと方向音痴の魔法少女  作者: エアポート快特
第七章

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108話 ただのしがない学者

「――そら」


おとはは、震える手を、そっとそらの頬に伸ばした。

そらは、それを避けなかった。

ただ、影の刃を構えたまま、動けなくなっていた。


「あなたが、学校で辛い思いをしてたこと。私は、本当に、何も気づいてあげられなかった」

「……今更、そんな話をされても」

「うん。今更よね。わかってる」


おとはは、涙を拭うこともせず、それでも穏やかに続けた。


「でも、これだけは言わせて。あなたが、あの時、誰にも助けを求められなかったのは、あなたのせいじゃない。私が、ちゃんと見てあげられなかったから」


そらの拳が、震えていた。


「――違う」


絞り出すような声だった。


「僕は、誰も恨んでなんかいません。母さんのことも、姉さんのことも」

「そら……」

「あの人は、僕に、何も期待しなかった」


そらは、静かに、しかしはっきりと言った。


「良い子である必要もない。誰かの理想に応える必要もない。ただ、僕という存在そのものを、あの人は肯定してくれた。……あなた達が与えてくれなかったものを」

「そんなこと……!」


アサが、思わず声を上げかける。だが、そらはそれを遮った。


「姉さんは、いつも眩しかった。魔法があって、才能があって、皆に愛されて。……僕は、ただの弟でしかなかった」

「そら、それは違う……! 私は、そんな風に……!」

「わかってます。姉さんが、悪意でそうしたわけじゃないことくらい」


そらの声は、驚くほど静かだった。


「でも、事実として、僕はずっと、あなたの隣で、何者にもなれなかった。……ファーベル様は、そんな僕に、初めて価値を見出してくれたんです」


その言葉に、おとはが、静かに目を伏せた。


「――だから、戻らないの?」

「はい」


そらは、迷いのない声で頷いた。


「僕は、最後まで、ファーベル様にお仕えします。……これは、僕自身が選んだ道です。誰にも、覆させません」

「そら……!」


アサの叫びに、そらは、初めて、僅かに寂しげな笑みを見せた。


「姉さん。……短い間でしたけど、また会えて、良かったです」


そう言うと、そらは、静かに視線を、隣で立ち尽くすおとはへと移した。

一瞬その表情に、これまでの静けさとは違う何かが揺れた。


「……母さん」


そらの声が、わずかに掠れた。


「……母さんのことも、姉さんのことも、本当は恨んでなんかいません。恨めるくらいなら、まだ楽でした」

「そら……」

「母さんを封印したのも、姉さんを狙う手引きをしたのも、僕自身の意志です。誰にも命じられたからじゃない。……だから、謝る資格なんて、本当はないんです」


そらは、一度だけ、深く息を吸った。


「……ごめんなさい」


その一言は、これまでの淡々とした声とはまるで違う、どこか幼い響きを残していた。

その言葉を最後に、そらの足元の影が、大きく広がっていく。


「待って……!」


そらは最後に一度だけ、おとはの方を振り向いた。


「そら……ご飯はしっかり食べてね」


「……はい」


そらの姿が、影と共に、音もなく消えていく。

崩れた駅構内に、重い静寂が落ちた。


「……元気でね、そら」


おとはは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


「――お母さん……」


アサが、震える声で、その背中にそっと寄り添う。


「ごめんなさいね、アサ。母親らしいこと、何一つ、してあげられなくて」

「そんなこと、ない」


アサは、涙を堪えながら、母の手を強く握った。

その時だった。

崩れ落ちた天井の向こう、深い闇の奥から、ゆっくりと、一人の男の気配が近づいてくるのが感じられた。


瓦礫の隙間から差し込む、赤黒く明滅する光の中に、その姿が浮かび上がる。


染み一つない漆黒のロングコートを、纏うというより、着崩さずにいることそのものが自然であるかのように身につけた、長身の男だった。

歳の頃は、まるで判然としない。

皺一つない、彫刻めいた整った顔立ちは、青年のようにも、それよりずっと年上のようにも見えた。

腰元に提げているのは、剣でも杖でもなく、使い込まれた古い革表紙の手帳が一冊だけ。

まるで、これから始まる惨劇の一部始終を、観察日誌にでも書き留めるつもりであるかのように。


足取りに、荒々しさは欠片もない。

むしろ、静かな書斎の中を歩くような、あまりにも落ち着いた佇まい――それが、この場においては、何よりも薄気味悪かった。


「――おやおや。随分と、感動的な親子の会話でしたね」


朗らかで、しかしどこまでも底知れない声が、コンコースに響き渡った。


「初めまして、皆さん。私の名はファーベル。ただのしがない学者です」

「ファーベル……」


ハルトの前にかつて立ちふさがった男が、もう一度自分の目の前に現れた。


「おや、そこにいるのは、秋津ハルト君ですね」

「な……!?」

「なぜ僕の名前を知っているか? そうですね、最大の理由は、私があなたをこの計画の脅威であると同時に、面白い観察対象であったからです」

「脅威……いや、その前に観察対象?」

「ええ。私の考えが正しければですが……、あなたとは以前、どこかでお会いしているはずですよね」


「な……」


ハルトの喉から、掠れた音だけが漏れた。

覚えているはずがない。この世界のハルトは、まだ一度も、この男と対面していないのだから。

それでも、胸の奥で、何かが激しく警鐘を鳴らしていた。消えたはずの記憶の底に沈んでいる何か――今ここにいる自分ではない、もう一人の自分が、確かにこの声を知っている。そんな感覚だった。


「……何を、言ってるんだ」


声を絞り出すのが、精一杯だった。

ファーベルは、その反応さえも楽しんでいるかのように、目を細めた。


「ふふ。そういう顔をされると、こちらとしても興味が尽きませんね」


そう言うと、彼は組んでいた指を、静かにほどいた。


「――ですが、種明かしは、また今度にしましょうか。今は、少々……騒がしいので」

「騒がしい……?」


ハルトが問い返すのと同時だった。

ファーベルが、軽く、まるで埃を払うかのように、片手を宙に振った。

たった、それだけの仕草。

刹那、地上へと続く連絡口の方角から、けたたましい絶叫と、金属が引き裂かれるような轟音が響き渡った。


「な、なんだ……!?」


ハルトが振り返る。連絡口の奥、瓦礫の隙間から漏れる光が、赤黒く明滅していた。


無線機越しに聞いた、あの声が耳の奥に蘇る。

――新宿駅構内、悪魔化した人間による暴走が発生

避難誘導と鎮圧のために展開していたはずの異界管理局の部隊が、あの向こうで、今もなお持ちこたえているはずだった。


「なに、したの……!」


アサが叫んだ。震える声に、初めて、はっきりとした恐怖の色が滲んでいた。


「なに、ということもありません」


ファーベルは、あくまで穏やかな口調のまま答えた。


「ただ、少しだけ、力を"通した"だけですよ。あちらで踏ん張っていた、あなた方の同胞たちに」


その言葉が終わるより先に、連絡口の奥から響いていた怒号と悲鳴が、まとめて、途絶えた。

まるで、誰かがスイッチを切ったかのように。

残されたのは、ただ、崩れ落ちる瓦礫の音と、風の唸りだけだった。


「……嘘、でしょ」


アサの声が、掠れる。


「嘘だと思うなら、確かめに行かれますか? 止めはしませんが」


ファーベルは、口の端を、僅かに持ち上げた。


「もっとも――あなた方が今、私の前から目を離せば、その隙に、私が何をするかは、保証できませんけどね」


その一言に、ハルトの足が、竦んだように止まった。

助けに行きたい。だが、行けば、目の前のこの男が、次に何をするか分からない。

――たった一振りの手だけで、数十人規模の戦線を、丸ごと沈黙させる力。

それが今、目の前にある。


「……そんな」


おとはが、掠れた声で呟いた。

その顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

ハルトの背中を、冷たい汗が伝った。

これまで「格の違い」という言葉でしか語られてこなかったものの正体を、今、肌で思い知らされていた。


ファーベルは、三人を見渡しながら、ゆっくりと口を開いた。


「さて――前置きが、随分と長くなってしまいましたね」


彼は、両手を静かに広げた。


「私は、ファーベル。……この茶番の、幕を引きにまいりましょうか」


崩れ果てた新宿駅の構内に、静かに、しかし確実に、絶望の気配が広がっていた。

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