108話 ただのしがない学者
「――そら」
おとはは、震える手を、そっとそらの頬に伸ばした。
そらは、それを避けなかった。
ただ、影の刃を構えたまま、動けなくなっていた。
「あなたが、学校で辛い思いをしてたこと。私は、本当に、何も気づいてあげられなかった」
「……今更、そんな話をされても」
「うん。今更よね。わかってる」
おとはは、涙を拭うこともせず、それでも穏やかに続けた。
「でも、これだけは言わせて。あなたが、あの時、誰にも助けを求められなかったのは、あなたのせいじゃない。私が、ちゃんと見てあげられなかったから」
そらの拳が、震えていた。
「――違う」
絞り出すような声だった。
「僕は、誰も恨んでなんかいません。母さんのことも、姉さんのことも」
「そら……」
「あの人は、僕に、何も期待しなかった」
そらは、静かに、しかしはっきりと言った。
「良い子である必要もない。誰かの理想に応える必要もない。ただ、僕という存在そのものを、あの人は肯定してくれた。……あなた達が与えてくれなかったものを」
「そんなこと……!」
アサが、思わず声を上げかける。だが、そらはそれを遮った。
「姉さんは、いつも眩しかった。魔法があって、才能があって、皆に愛されて。……僕は、ただの弟でしかなかった」
「そら、それは違う……! 私は、そんな風に……!」
「わかってます。姉さんが、悪意でそうしたわけじゃないことくらい」
そらの声は、驚くほど静かだった。
「でも、事実として、僕はずっと、あなたの隣で、何者にもなれなかった。……ファーベル様は、そんな僕に、初めて価値を見出してくれたんです」
その言葉に、おとはが、静かに目を伏せた。
「――だから、戻らないの?」
「はい」
そらは、迷いのない声で頷いた。
「僕は、最後まで、ファーベル様にお仕えします。……これは、僕自身が選んだ道です。誰にも、覆させません」
「そら……!」
アサの叫びに、そらは、初めて、僅かに寂しげな笑みを見せた。
「姉さん。……短い間でしたけど、また会えて、良かったです」
そう言うと、そらは、静かに視線を、隣で立ち尽くすおとはへと移した。
一瞬その表情に、これまでの静けさとは違う何かが揺れた。
「……母さん」
そらの声が、わずかに掠れた。
「……母さんのことも、姉さんのことも、本当は恨んでなんかいません。恨めるくらいなら、まだ楽でした」
「そら……」
「母さんを封印したのも、姉さんを狙う手引きをしたのも、僕自身の意志です。誰にも命じられたからじゃない。……だから、謝る資格なんて、本当はないんです」
そらは、一度だけ、深く息を吸った。
「……ごめんなさい」
その一言は、これまでの淡々とした声とはまるで違う、どこか幼い響きを残していた。
その言葉を最後に、そらの足元の影が、大きく広がっていく。
「待って……!」
そらは最後に一度だけ、おとはの方を振り向いた。
「そら……ご飯はしっかり食べてね」
「……はい」
そらの姿が、影と共に、音もなく消えていく。
崩れた駅構内に、重い静寂が落ちた。
「……元気でね、そら」
おとはは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「――お母さん……」
アサが、震える声で、その背中にそっと寄り添う。
「ごめんなさいね、アサ。母親らしいこと、何一つ、してあげられなくて」
「そんなこと、ない」
アサは、涙を堪えながら、母の手を強く握った。
その時だった。
崩れ落ちた天井の向こう、深い闇の奥から、ゆっくりと、一人の男の気配が近づいてくるのが感じられた。
瓦礫の隙間から差し込む、赤黒く明滅する光の中に、その姿が浮かび上がる。
染み一つない漆黒のロングコートを、纏うというより、着崩さずにいることそのものが自然であるかのように身につけた、長身の男だった。
歳の頃は、まるで判然としない。
皺一つない、彫刻めいた整った顔立ちは、青年のようにも、それよりずっと年上のようにも見えた。
腰元に提げているのは、剣でも杖でもなく、使い込まれた古い革表紙の手帳が一冊だけ。
まるで、これから始まる惨劇の一部始終を、観察日誌にでも書き留めるつもりであるかのように。
足取りに、荒々しさは欠片もない。
むしろ、静かな書斎の中を歩くような、あまりにも落ち着いた佇まい――それが、この場においては、何よりも薄気味悪かった。
「――おやおや。随分と、感動的な親子の会話でしたね」
朗らかで、しかしどこまでも底知れない声が、コンコースに響き渡った。
「初めまして、皆さん。私の名はファーベル。ただのしがない学者です」
「ファーベル……」
ハルトの前にかつて立ちふさがった男が、もう一度自分の目の前に現れた。
「おや、そこにいるのは、秋津ハルト君ですね」
「な……!?」
「なぜ僕の名前を知っているか? そうですね、最大の理由は、私があなたをこの計画の脅威であると同時に、面白い観察対象であったからです」
「脅威……いや、その前に観察対象?」
「ええ。私の考えが正しければですが……、あなたとは以前、どこかでお会いしているはずですよね」
「な……」
ハルトの喉から、掠れた音だけが漏れた。
覚えているはずがない。この世界のハルトは、まだ一度も、この男と対面していないのだから。
それでも、胸の奥で、何かが激しく警鐘を鳴らしていた。消えたはずの記憶の底に沈んでいる何か――今ここにいる自分ではない、もう一人の自分が、確かにこの声を知っている。そんな感覚だった。
「……何を、言ってるんだ」
声を絞り出すのが、精一杯だった。
ファーベルは、その反応さえも楽しんでいるかのように、目を細めた。
「ふふ。そういう顔をされると、こちらとしても興味が尽きませんね」
そう言うと、彼は組んでいた指を、静かにほどいた。
「――ですが、種明かしは、また今度にしましょうか。今は、少々……騒がしいので」
「騒がしい……?」
ハルトが問い返すのと同時だった。
ファーベルが、軽く、まるで埃を払うかのように、片手を宙に振った。
たった、それだけの仕草。
刹那、地上へと続く連絡口の方角から、けたたましい絶叫と、金属が引き裂かれるような轟音が響き渡った。
「な、なんだ……!?」
ハルトが振り返る。連絡口の奥、瓦礫の隙間から漏れる光が、赤黒く明滅していた。
無線機越しに聞いた、あの声が耳の奥に蘇る。
――新宿駅構内、悪魔化した人間による暴走が発生
避難誘導と鎮圧のために展開していたはずの異界管理局の部隊が、あの向こうで、今もなお持ちこたえているはずだった。
「なに、したの……!」
アサが叫んだ。震える声に、初めて、はっきりとした恐怖の色が滲んでいた。
「なに、ということもありません」
ファーベルは、あくまで穏やかな口調のまま答えた。
「ただ、少しだけ、力を"通した"だけですよ。あちらで踏ん張っていた、あなた方の同胞たちに」
その言葉が終わるより先に、連絡口の奥から響いていた怒号と悲鳴が、まとめて、途絶えた。
まるで、誰かがスイッチを切ったかのように。
残されたのは、ただ、崩れ落ちる瓦礫の音と、風の唸りだけだった。
「……嘘、でしょ」
アサの声が、掠れる。
「嘘だと思うなら、確かめに行かれますか? 止めはしませんが」
ファーベルは、口の端を、僅かに持ち上げた。
「もっとも――あなた方が今、私の前から目を離せば、その隙に、私が何をするかは、保証できませんけどね」
その一言に、ハルトの足が、竦んだように止まった。
助けに行きたい。だが、行けば、目の前のこの男が、次に何をするか分からない。
――たった一振りの手だけで、数十人規模の戦線を、丸ごと沈黙させる力。
それが今、目の前にある。
「……そんな」
おとはが、掠れた声で呟いた。
その顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
ハルトの背中を、冷たい汗が伝った。
これまで「格の違い」という言葉でしか語られてこなかったものの正体を、今、肌で思い知らされていた。
ファーベルは、三人を見渡しながら、ゆっくりと口を開いた。
「さて――前置きが、随分と長くなってしまいましたね」
彼は、両手を静かに広げた。
「私は、ファーベル。……この茶番の、幕を引きにまいりましょうか」
崩れ果てた新宿駅の構内に、静かに、しかし確実に、絶望の気配が広がっていた。




